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北浦
……のつもりで書いてたけど、途中、浦北寄りの北浦北な気分になってます。時の流れってすごい。





 ファストフード店で時間を潰していると時たま高校生の女の人たちから声をかけられることがある。
 甘い香水の香りがハンバーガーとポテトの油臭さに混ざって、とても鼻に付く。彼女たちは微塵もそんなこと感じていないという顔で僕の名前だったり年齢だったり、ずかずかとパーソナルスペースを踏み荒らしていく。
 僕の好きな匂いは柔らかな柔軟剤と木造の木の匂いが混ざったような、温かくて、どこか懐かしい匂いだ。思い描くのはたった一人の凛とした深緑のような人。嫌なことは嫌と言え、なんて言ってくるくせに、僕の心の柔いところを暴いて強引なまでに引きずり出す横暴。それでいて、彼は僕を傷つけるようなことはせず、優しく包み込んだ。彼にそんなつもりがないことは知っている。けれど、そんな何気ない気遣いが僕には嬉しかった。
 彼にならもっと僕の心の奥まで踏み込まれたっていい。いっそ、踏み荒らしてくれても構わない。そう思えてしまう程度には彼は僕を魅了していた。
 最初はほんの憧れだった。しかし、今、出会ったときと同じ感情を彼に向けられるかというと、答えは否だ。きっとあの頃には戻れない。
 もっと僕を知ってほしい。僕を見てほしい。この感情が何て言うのかはまだ知らなくていい。今はこの衝動こそが尊かった。
 さて、目の前で飽きずに話す彼女たちをどうやり過ごそうかと店の外に目を向けると、見慣れた深緑が外で誰かと通話しているのが見えた。とても楽しそうに顔を綻ばせている。胸のあたりがざわついた。
「すみません。これから約束があるので」
 短く言葉を切ると捕まる前にトレイと鞄を掴んで席を立つ。まだポテトと烏龍茶が残っていたが烏龍茶だけ手に持って外に出た。左右を見渡し、右に緑を見つけて駆け寄る。
 まだ、誰かと話している。先ほどよりはトーンが落ちているようだが、胸のむかつきは収まらなかった。それどころか目の前にお兄さんがいるのだと思うと肺が縮まっているのか膨らんでいるのか分からない痛みを覚え、咄嗟にお兄さんに手を伸ばした。痛みとお兄さん、その二つがどう繋がるというのか。触りたい、とその思いだけが脳の理解を置いてけぼりにして彼に手を伸ばしていた。
 烏龍茶を持っていた手がお兄さんの頬を掠めた。
「うおっ!?」
「ぁ、うわ」
 驚いたお兄さんの手が携帯から離れ、反射的に携帯を掴む。が、幸か不幸か烏龍茶が手から離れ、それはもう見事にお兄さんを濡らした。
 びしゃ、と肩から胸から烏龍茶が滴り、お兄さんに留まらず撥ねて僕の腕まで濡れた。固い制服の生地がゆっくりと水分を吸って重く湿っていく。
「な、ナイス、北原」
「いえ、こちらこそ、なんか想像以上に驚かせちゃったみたいで」
 携帯のスピーカーから焦った男の声が聞こえてくるのが面白くなくて、切ってやろうか、と携帯画面を見つめていると、お兄さんがありがと、と言って僕の手から携帯を取り上げた。それから早口で挨拶を済ませると通話を切り、いつもの無愛想な顔で僕を見た。
「北原」
「えっと、電話口だと声高いんですね」
「そうじゃないだろって、お前、腕のところ大丈夫か?」
 それを言うならお兄さんこそ、肩から胸から、もう少しでズボンも濡れそうですよ。なんて口には出さず、袖を摘んでシャツが濡れているか確認する。少しだけ湿気っているかもしれない。浸透する前に上着を脱げば、お兄さんが上着を取り上げた。濡れた部分を指で触れて、少しばかり困ったようにため息を吐いた。
「うち来るか?」
「はいっ!」
 食い気味に返事をしてしまったのはご愛嬌だ。



 家に着いてから、お兄さんはやっと濡れたセーターを脱いだ。中のワイシャツまで濡れていて、少しだけ肌色が透けて見えていた。決して白すぎるというわけではない。適度に健康的な肌色だけれど、骨や筋肉が濡れたワイシャツ越しに見えるという非日常的な艶めかしさに目が離せなかった。ワイシャツに手をかけたお兄さんが何かを思い出したように振り返る。
「北原、中の服は濡れてないか?」
「すぐに乾くと思います」
 道中脱がなかったお兄さんと違って、早々に濡れた上着を脱いだので被害は少ない。腕を摩ってみても少し冷たいかな、と思う程度だ。しかし、お兄さんは僕の腕を掴むと呆れ顔で僕の頭をこつんと叩いた。
「お前なぁ、それじゃ気持ち悪いだろ」
 ちょっと待ってろ、と言うとお兄さんはワイシャツの前を全部開けたまま押入れの方へと進んでいく。ベルトが緩めてあって、ズボンが寛げてあるのがわかる。白い腹筋が見える。その下には僕と同じものが付いていて、きっと僕よりも大人で、大きいのだろう。そして上には女の人についているような胸はなく、薄っすらと胸筋で段差のついた平べったい胸が付いている。その頂点はワイシャツに隠されていて、よく見えない。
 ふと、そこで先ほど会った女子高生たちを思い出した。嫌な甘さだった。思い出せば出すほど、お兄さんの匂いが嗅ぎたくなってきた。変態かもしれない。
 後ろからそっと近づき、背中を抱き込むように首筋に鼻を押し当てた。
「わっ……き、北原さん?」
「さん付けなんかしないで、いつもみたいに葵って呼んでください」
 少し烏龍茶の匂いと、今日は体育があったのか汗と制汗剤の匂いだろうか。ワイシャツに顔を寄せるといつもの柔軟剤の匂いがした。
「お前のこと名前で呼んだことないだろ。こら、犬みたいなことすんな」
「僕、さっきナンパされたんです」
「……おう、喧嘩するか?」
「お兄さんは良い香りですね」
 お兄さんは押入れから適当なティーシャツを取り出して、振り返った。ついでに引き剥がされた。お兄さんは僕の肩に服を当てるとサイズを見て、もう少し大きなものを取り出して、よし、と呟いた。それから僕のシャツを引っ張り脱ぐように促す。
「洗濯してあるけど、少し古い服だから嫌かもしんないけど濡れてるよりはマシだろ」
「そんなことないです。お兄さんの押入れの中の服ってことは、お兄さんの匂いが染み付いてるんですよね?」
 むしろ着ないで持って帰っても良いですか。
「キモいっ! てか、匂いって言ってもただの柔軟剤だろ」
「ただのじゃないです」
 これは家の匂いだ。ずっとお兄さんがここで暮らしているっていう証明の匂いで、他の誰も真似できない井浦家の匂いなのだ。僕には到底、再現できない。お兄さんと同じ匂いのする井浦さんが羨ましくなることすらある匂いなのだ。
 口には出さなかったが何かを察したお兄さんが呆れたようにため息を吐いた。
「お前だって、良い匂いしてるだろ」
 そう言って前屈みになったと思ったら、くん、と鼻を寄せてお兄さんは僕の首筋に顔を埋めた。ふわ、と緑の髪が頬にあたる。これはシャンプーの匂いだろうか。体臭とは違う匂いがする。思わず、その頭に腕を回して抱き締めた。
「んぐ、おい、北原」
「もっと、」
 お兄さんの唇が肌に当たった感覚がした。乗り出したときに掴まれていたらしい腕に力が込められる。掴まれた部分が軽い痛みと甘い痺れを齎す。お兄さんの神経が僕に向けられているのかと思うだけで心のどす黒い部分が満たされていくのを感じた。
 捕まえられるというのは存外、悪くないかもしれない。お兄さんの頭を抱き込んだまま後ろに倒れこめば、体勢を崩したお兄さんも覆い被さるように倒れてきた。
「もっと僕を知ってください」
 気が付けば背中に手が回されていた。倒れる際に衝撃を和らげていてくれたらしい。そんな優しさにまた胸が締め付けられる。
「お兄さん」
 もっと僕を見て、僕を知って、僕を感じて。
「なまえを、よんで」
 肩に頭が押し付けられる。強く、擦りつけられるように。まるでマーキングだ。いっそキスマークでもつけてくれたらいいのに。
「あおい」
 低い声が聞こえた。
 頭を押さえつけていた手にはもう力が込められていなかった。添えるように置かれた手を、もうお兄さんは拒みはしなかった。
 僕がお兄さんに向ける感情はもう昔のような輝くものを見つめる憧れではない。ただ純粋に振り向いて欲しかったあの頃にはもう戻れない。それがいつからだったのかは分からない。けれど、もう戻れはしないのだ。見返りがなくてもいい、見つめているだけで良かったあの頃には戻れないのだ。
 僕は今、お兄さんからのエゴを求めている。エゴを押し付けてほしいというエゴを押し付けている。あの頃の綺麗な感情にはもう戻れないのだ。
 そう思うと鼻の奥がつんと痛くなった。
「ごめんなさい」
 濡らしちゃって、と付け足した。
「気にすんな」
 その声はどこまでも優しかった。



おまけ



 それから僕らはお兄さんがくしゃみをするまで抱き合った。お兄さんはくしゃみで我に帰ったのは顔を赤らめ、どこか気まずそうに身を離した。あとは服を交換して、濡れた服はお兄さんがドライヤーで乾かしてくれたけれど、なぜか制服とシャツは紙袋に入れられ、僕はお兄さんの古い柄の入ったティーシャツを着て帰るはめになった。それはもう着ないから捨てても構わないとも言われた。取っておこうと決めたのは口には出さなかった。きっとお兄さんも承知の上で言ってくれたはずだから。
「制服のズボンにティーシャツってダサいですね」
「あぁ、よく似合ってる」
「……ありがとうございます」
 お兄さんのくせに得意げに笑っている。笑顔も素敵だけど、こんな場面で見たかったわけじゃない。笑顔が素敵だけれども。
 お兄さんはさらに悪戯っぽく笑うと、内緒話をするように手招きをして耳元で囁いた。
「俺に包まれてるみたいだろ?」
 悔しいが否定できない。が、やられっぱなしというのも沽券にかかわるというものだ。
 屈んでいるお兄さんの頭を掴んで、引き寄せて額に唇を落とす。ちゅ、と触れるだけのキスをして離れる。
「今は包まれててあげますけど、僕は貴方を包みたいと思ってますから」
 早口でそう伝えて玄関から出た。内側からお兄さんが慌ててる音が聞こえてきて、これは逃げなければ、と駆け足になった。案の定、後ろからはお兄さんの罵声が聞こえたとか聞こえなかったとか。



匂いフェチみたいな話になってしまった。





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