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「はじめまして、貴方のことが大嫌いな鬼灯です」




ポロリと剥がれ落ちる。


手が急に大きくなったような気がして、目を閉じた。
桃タロー君は何処だろう。いないならいないでいらぬ心配をかけずに済むのでちょうど良いのだが、手元がよく見えなくて不便だ。
変に調合を間違えてしまうのは困るし、今日は此処までにしようか。
火を止め、匙を皿の上にあげると入り口の札を休業にした。溜め息を吐きながら手を伸ばし、椅子の場所を確認すると腰をおろす。
一息つくとどっと疲れが押し寄せてきたような気がして棚に目をやる。
あれは何処だったろ。よく見えないや。
三角巾を取ると仰け反り目に宛てる。見えないのならば見なければいい。

「あれ?今日はもう閉店なんですか?」

少し離れた場所から聞こえる声。
嗚呼、桃タロー君いたんだ。

「んー…今日はもう疲れたからパス」

だらんと手足を投げ出しながら言うと桃タロー君は呆れたように「んな、適当な」と呟いた。
気づかれてない。良かった。いや、何もよくないのか。

「桃タロー君」
「はい」
「お疲れ様、いつもありがと」

三角巾を一度目から離し、多分桃タロー君のいる、声の聞こえた方に向かって笑いかけた。謙虚な言葉が続けざまに繰り出されるけど、そんなことどうでも良かった。ただ一緒にいてくれる人がいるって気持ちいいな、なんて考えてた。
この気持ちを僕は知っていただろうか、そしてこれから先も教えてもらえるのだろうか。

ねぇ、桃タロー君。

「これからも宜しくね」

次の僕にも教えてあげてね。

「はい!」

元気の良い返事は本当のことを知らず、無邪気にはしゃぐ。





僕は一体何人目だろうか。

白澤はこの世に僕しかいなかった。
けれど、僕なら沢山いた。
長い歴史や知識を忘れないように定期的に保存する世代交代。それは意識的なもので他の誰も知り得ない白澤だけの秘密。受け継がれるのは知識となった記憶だけ。そこに関する感情などは受け継げない。現に僕は沢山のことを知っていてもその記憶に関する感情はザックリしか分からないし、それだって記憶を元にしてのものだし、正しいかどうかなんて知らない。知らなくても別段困りはしなかった。だって確かめる術なんて何処にもなかったし、誰も気づかない。
気づかれない。豊かすぎる知識は小さな違和感すらも補ってしまう。僕がいなくなっても新しい僕が来るだけだから。これは持ち帰れない。譲ってしまうのが一番なのだ。
嗚呼、やっと気づけたのに、やっと彼奴に伝えられそうだったのに、僕はそれを違う僕に譲らなければならないのか。
嫌だな、それでも迫り来る新しい僕が早く早くと急かして。

「…もう…すこしだけ」

待って。





「白澤さんの様子が可笑しい?いつものことでしょう」

不安そうな顔で言ってくる桃太郎に鬼灯は呆れたように金棒を担ぎ直した。

「でもっ…最近は本当に可笑しいんですよ!ぼぅっとして薬の調合間違えたり、何か思い詰めたような顔をしてるって思ったら急に薬品を引っくり返したり、この間なんて早く店を閉めて何を思ったか急にお礼を言ったりしてきて!!」
「それは…更年期障害なのでは…」
「違いますってば!!」

桃太郎さんが必死なのは分かりました。本当、あの人に良い意味で影響されましたね。
しかし、あの神獣の様子は確かに少しだけ気になる。ただの思い過ごしならいいのだが、もしボケたのだとしたら色んな仕事に支障が出てしまう。悔しいことに彼奴の知識は必要不可欠なのだ。ならば、少しくらい見てきた方が良いと結論付ける。

「まぁ、様子見くらいならいいですよ」
「え!?」
「様子くらいなら見てきてやってもいいと言ってるんです」
「本当ですか!?」
「ボケられたら困りますのでね」
「ありがとうございます!!」

綺麗に腰を折る桃太郎を一瞥し、書類を纏め、近くにいた獄卒に渡す。

「後は任せましたよ」
「ふぇっ!?ほ、鬼灯さま!?」






『終わりだね』
『いつまで粘るの?』
『君は強情だ』
『もう殆んど感覚も残ってないだろうに』
『後は僕に任せてよ』

「…ふ、冗談っ…これは、僕の身体だよっ…」

軋む。
次の僕が急かすように押してくる。引き抜かれてしまいそうなくらい強く激しい痛み。
もう長くは持たない。一回リセットしなければデータが溢れてしまう。溢れてしまうということは今までの記憶を水に流すということだ。
白澤としてあるまじき行為だと分かっていても、どうしても捨てられなくて。

痛いよ。

うっすらと冷や汗の滲む額に手を宛て、前髪を掻きあげる。
気持ち悪い。風呂にでも入りたいな。ボヤけた視界に意識が薄れてきていることなどとうに気がついていた。手が震え、桃タロー君にも心配されて、誰かと一緒にいることってそういうことなのかと納得した。
まあまあ悪くはなかったかな。

「…心残りは一つだけかなぁ」

自嘲。素直じゃないからこういう付けが回ってくる。
次の僕、そういうところは学習した方がいいよ。いや、この性格は白澤だから仕方ないのか。結局僕は白澤に振り回されて終わるだけの運命だったってことか。

「心残りとは、どういう意味ですか?」


「…は、?」

凛と透き通るような声。歪みなく真っ直ぐで、耳に残る。

「桃太郎さんが心配してましたよ、白豚がボケたと」

ツカツカと迷いなく歩む音が心地よく、ゆっくりと視線を向けるとそこには真っ黒な鬼がいた。ふてぶてしくて傲慢で性格悪くて、僕の大嫌いな鬼灯。
どうしてここに?
驚いたように固まる白澤に満足そうに鬼灯は息を吐く。
それから少しだけ、本当に少しだけ眉を寄せる。それは不機嫌の象徴か、彼なりの心配か。

「ボケてない」
「あまり、調子が良さそうではないですね」

白澤にはその僅かな変化に気づくような余裕はなかった。
ただ、悟られてしまわぬように気丈に振る舞うしか残されてなかった。なけなしのプライドが白澤を駆り立てる。弱味を見せてはならない暗黙の了解。
それで良いのか?過去が問いかけた。
分からない。白澤は笑った。ただ、最期にこの大嫌いな顔を見ようとは、嬉しい。口角が上がる。

「ハァ?めちゃくちゃ調子良いですけど?」

ガタリと勢いを付けて、立ち上がる。グラッとなりそうになったのは内緒だ。見渡す室内のボヤけた視界でもこいつは黒く、際立っていた。

「無茶は止しなさい」
「イヤだ、それに無茶なんてしてない」

ガガガと鳴る高いノイズ音が耳障り。こんな耳ならいらない。見えないなら、聞こえないなら、いっそ触れられなきゃいいのに。中途半端に残って感覚だけを頼りに手を伸ばす。

「白澤」

腕が掴まれ、強く引かれる。ぽふんと黒に顔を埋めれば女の子とは比べ物にならないほど鉄臭くて血生臭いのに何故か仄かに香る石鹸の匂いに頬が歪んだ。

「さん、でしょ?」

プツン。
手の感覚が消える。許容範囲を越えようとしている。白澤が僕を追い出そうとしているのだ。
駄目、後、もうちょっとだけ待って。

「相も変わらず、薬臭いですね」

ぎゅっと背中に回された手には申し訳なかったけど、僕にはもうそんな手は残されてなかった。

「悪かったね」

憎まれ口。
伝えなきゃいけないことがあるんだろ?白澤が笑った。早く早く早くしないと。

「素直な貴方は酷く気持ちが悪い」

意識が遠退く。瞼が酷く重く感じられた。あの三日三晩寝ずに頑張った日の続きを無理矢理進んでいるような感じだ。もう眠いと訴えているのにまだ寝たくないと愚図るような、なんて幼稚なんだろう。所詮、僕はこれを手放したくないだけなんだ。

「鬼灯、知ってるか?白澤は不死身じゃないんだ」
「それは…」
「代交代、記憶だけ引き継いでその他を一回リセットしちゃうの…じゃなきゃ、白澤はその膨大な知識に潰されかねない」

嗚呼、鬼灯。僕は伝えられるかな。

「聞いても、いいですか?」
「い、よ…」

嗚呼。とうとう滑舌が回らなくなってきたけれど、難しい顔をした鬼灯なんて凄く新鮮で緩んだ頬を隠すように下を向く。少しだけ焦ったようなこの小難しそうな顔は僕が作ったんだよ?なんて欲を言えば笑顔が欲しい。でも、我慢。

「心残りとは一体、何のことですか?」

鬼灯が言う。薄々分かってる癖に聞いちゃう辺りが酷く憎たらしい。

「その、まんまの意味、だよ」

例えば、だ。例えば、ここで僕が鬼灯に本当のことを伝える。
今まで思っていたこと、最近になってようやく気がついたこと。どちらが本音に近いのだろう。
白澤の中で僕が生まれたのは実はというと鬼灯と出会ったくらいのことだ。酷く気に入らない奴だったという、相性の記憶を頼りに白澤を演じる。別にそれは演じるまでもないことだった。だって、僕は本当にこいつのことが大嫌いだったのだから。

「た、ぶん、次、目が覚めた時、もう僕はいない」

優しくされるのも、するのも何だか違うような気がしてずっと悩んでた。
このわだかまりはなんだったか。
それから悩んで悩んで、やっと気づけたんだ。だから、本当はお前にも伝えてしまいたい。
なのに、それは何だか違うんだ。この関係を壊してしまうのが嫌で、これとは違う関係を結んでしまうのが怖くて、誰よりも好かれたいと思うのに誰よりも嫌ってほしい。僕だけの特等席は鬼灯の真っ正面。対を成すからこそ、強く惹かれた。その形を変に変えて崩してしまうのが嫌だった。

「だから、最期に、女の子の顔が見えなかった、ことかな」

やっぱり、こいつに好かれるのだけは御免だな。なんて笑ってしまう。

「貴方はっ…」
「嫌い、だよ、お前なんか、だいきらいだ」

これは白澤の意志じゃない。僕の意志なんだ。自信を持って言える。
嗚呼、お前は本当にそれで良かったのか?白澤が言う。うん、僕はこれが言いたかったんだ。悔いはない。悔いはいらないんだよ。

「私も貴方なんて大嫌いです」

鬼灯の手がゆっくりと離れ、膝から床に崩れ落ちる。そこに痛みはない。上体まで倒れてしまい、仰向けになると真上には変な顔をした鬼灯がいた。

「変な顔」

クスクスと笑いながら、部屋を一望した。これで見納めだよ。鬼灯ともお別れ、これからは新しい白澤がこいつと一緒に過ごすんだ。そう思うとなんだか、目頭が熱くなる。

「変な、顔をしてるのは貴方の方です」

覆い被さるように膝を折った鬼灯の顔が嫌に近くに感じられた。冷たい指が頬を撫でる。慈しむような手つきが普段の鬼神とは駆け離れていて不思議。
目の縁を長い爪が這う。睫毛が抜かれそう。嫌だな、痛いのは嫌いなんだ。

「ははっ…なんか、」

これじゃ、まるで、友人の死をいたわるただの人間だ。
消えそう、意識が飛び飛びになる。ノイズが広がる。視野が狭くなる。感覚は薄らいでいく。胸はきつく締め付けられているようだ。

ねぇ、僕はちゃんと白澤だった?

全て白澤の記憶に基づき、行動してきた。まぁ、元々は白澤の端末でしかなかったんだけどさ。意思なんて初めて持ったから上手く出来てた自信はなかったんだよね。

「白澤さん、貴方はさっき言いましたよね?白澤は定期的に保存しなきゃ膨大な知識に潰されかねない、と」

コクりと頷く。鬼灯は続ける。

「それは知識を持っている状態だからですよね…なら、知識を捨ててしまえば貴方は生きられるのですか?」

嗚呼、その手もあったのか。なんて赦されるわけがないだろ。きっと白澤は知識を手離した瞬間、消えてしまう。白澤の脱け殻としての僕は残るだろうけど、そんなエゴならいらない。

「ば、か」

目を閉じる。色んな情景が瞼を過る。嫌だなぁ…うっかり死にたくなくなっちゃう。

「なぁ、鬼灯」
「…なんですか」

「ホオズキが食べたい」



駄目だよ。




『そんなっ…』
『大丈夫、まだ消えないから。言っただろ?次、目が覚めた時だって』
『っ、』
『…ねぇ、』
『いや、です』
『………』
『少し…少しだけ待っていて下さい』
『うん…ありがと』
『貴方に感謝されるのは、』



酷く苦しい。




だって、私は貴方を救うことが出来ないのだから。
部屋から出ると、扉の向こうから小さな嗚咽が聞こえ、静かに膝をついた。膝を抱える。
ホオズキなんて、この季節、何処にもありませんよ。










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