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昔、本当に小さかった頃ではあるが妹と喧嘩をして家を飛び出したことがある。
なんだかんだで丸く収まった出来事ではあるが、どうしても忘れられない俺だけが知る空白の時間があった。



前置きとしては、まだ小さく幼かった俺は上手く感情の抑制が出来なかった。

『うわぁああんっおに、おにいちゃんがぁ!!』
『秀!あんたお兄ちゃんなんだから』
『秀はお兄ちゃんなんだから、』
『お兄ちゃんでしょ』
『お兄ちゃん!!』
『お兄ちゃん』
『お兄ちゃん』


繰り返される言葉の数々と妹の煩い泣き声。理不尽だ。あまりに理不尽である。妹が泣いたのは『お兄ちゃん』である俺が面倒を見ないから。『お兄ちゃん』は妹を泣かせてはいけない。『お兄ちゃん』なら妹が泣いたら泣き止ませなさい。『お兄ちゃん』は、『お兄ちゃん』は、『お兄ちゃん』は。

『うるさいうるさいうるさいっ!!!』

叫んで、靴を履かずに半ば逃げるように家を飛び出した俺は行く宛もなく、いつもより遠い、少しだけ家から離れた公園の遊具の中に身を潜めていた。本当は石川の家に逃げようとも考えたけど、途中、靴を履いてないことに気がついて恥ずかしくなったのだ。妹と喧嘩したとか情けなくて言えない。
夕刻を過ぎた、だんだんと暗くなっていくこの時間帯。俺以外公園には誰もいなくて、まるで自分だけが世界から切り取られてしまったのではないかという言い知れぬ孤独が身を包んだ。あちらこちらに穴の空いたドームのような遊具の中は暗くて、じめじめとしている。膝を抱えながら目を閉じると、そう、ちょうど寝るのに適しているのだ。
怒ったからか、疲れたからか、うつらうつらとしてきた意識を必死に起こそうとするも夕刻のチャイムが子守唄にも感じられた。



次に俺が目を覚ました時、辺りは真っ暗に染まっていて。小さく点った外灯を頼りに公園の大きな時計を見ると七時を過ぎていた。

帰らなきゃ。

焦るように思うのと同時に帰りたくないとも思えた。
『お兄ちゃん』が門限を破っちゃ駄目だから。また『お兄ちゃん』だ。嫌だ。俺だって『お兄ちゃん』になりたくてなったんじゃない。本当はなりたくなんてなかった。

「あれ、」

聞こえた声に振り返れば、そこには塾の帰りと思われる一人の高校生の姿があった。赤枯れのような濃い赤が外灯に照らされ、俺を真っ直ぐ見つめる瞳が安心させようと笑っているのが見えた。

「もう遅いから帰らないと両親が心配するよ」

歩きながら近づいてくる男から逃げるのは容易かったが、それでも逃げなかったのは靴下さえ履いてない足の裏が少しだけ痛くなってしまったから。

「家まで送ろうか?名前は?」
「………」
「じゃあ…お家、わかる?」

俺の目の前まで来ると膝を曲げ、目線を合わせ話しかけてくる男。拒絶しなかったのは別に人恋しくなったわけではないのだと、敢えて口を噤んだ。何も言おうとしない俺に男は困ったような顔をする。

「…参ったなぁ…このまま放っておくわけにはいかないしなぁ…」

放っておいてくれ。参ってくれ。
そんな念が通じたのか、男は立ち上がるとそのまま歩き出してしまった。

「……ぁ、」

思わず、手を伸ばしてしまう。だが、男は構わず進んでいってしまい、何ともいえない寂しさが胸の内を支配した。
遠くで聞こえる救急車のサイレン。
さっきまで怖くもなんともなかったはずの公園がやけに広く、暗く感じられた。
あぁ、どうしよう。行ってしまった。こんなことならちゃんと返事をしておけばよかった。
じゃりっ。小石混じりの地面を裸足で踏み締め、前に進むと足の裏に鈍い痛みを感じた。

「…ぃ、たっ…!」

その場に踞り、足の裏を確認するとそこには小指の先程の小さなガラスの破片が刺さっており、その傷口から血が溢れていた。
どうしよう。痛くて、歩けそうにない。
動けないという事実が更に追い詰めるようで、目頭がつうっと熱くなった。

「…ぅっ…ぁ、あぅっ…」

どうしよう。どうしよう。どうしよう。
ばくばくと心臓が痛いくらい悲鳴を上げ、ひくひくと嗚咽が洩れ、まともに言葉が出てこない。このままずっと動けなかったらどうしよう。

「あっ!」

声だ。また、同じ。すがるように見上げるが、濁った視界ではその姿をまともに捉えることが出来ない。だけど、そんな視界の中でも赤色だけはハッキリと見えた。
帰ってきてくれた。安心感で緩んでしまった涙腺に男は驚いたように声をあげる。

「ご、ごめんねー…置いてっちゃって。ほ、ほら、ジュースだよぉー?フレッシュオレンジとジューシーみかんあるんだけど、どっちがいい?」

引き吊った笑顔と差し出される明らかにメーカーが違うだけの缶ジュース。俺はどちらかというと、

「……りょくちゃ」
「えっ!?あ、…って!足怪我してんじゃん!靴どうしたの?ほら、ちょっと見せて」



何だかんだで緑茶を買ってくれた男は本当に人が良いと思う。あのあと、怪我をしてしまった足には男の人の白いハンカチを巻いてもらった。もちろん、水で傷口を洗ってからだ。それから抱っこでブランコまで運んでもらい、泣き止むまで頭を撫でていてくれた。


ようやく泣き止んだ俺に家に帰るように言っていた男も頑なに首を縦に振ろうとはしない様子に疲れてきたのか、どうして家に帰ろうとしないのかと尋ねてくる。
家を飛び出すまでの過程、『お兄ちゃん』と言われるのが嫌だとか、理不尽に攻められるとか愚痴のように溢した言葉を、そうか、とだけ言って男は頷いてくれる。程よい間の手が心地よい。一通り話し終えた俺に男は言う。

「じゃあ…妹なんていらなかった?」

俺は、何も答えない。

妹なんて、いらない。いらないよ。でも、なんか違う。
嫌で嫌で仕方なかったのに、いざいらないのかと問われれば、素直に肯定できない俺がいた。

「寂しいと少しでも思えるなら、君は家に帰るべきだ。少なくとも妹は君がいなくなって寂しい思いをしているはずだから」




それでも、帰りたくないとぐずる俺に男は最後まで付き合ってくれて、最終的に眠気に負けてしまった俺を背負い送り届けてくれたらしい。
途中で寝てしまった俺は男がどのようにして送り届けてくれたのかは分からない。後半のことだってうろ覚えだし、男の名前なんて小さかった俺は覚えてすらいなかった。
でも、手元に残っている赤い染みと土の色が薄く付いてしまった白いハンカチだけが、その出来事を本当だったと俺に教えてくれた。



「…はぁ」

あの時の彼は今何歳くらいなのだろう。
きっともう成人しているし、この町にいる可能性すら薄い。返す機会なんて最初からなかったのかもしれない。今さら会ったところで覚えてくれているわけがない。俺だって顔とか結構ぼんやりしてる。いや、それ以前にかなり恥ずかしい思いをするだろうから、ちょっとだけ避けていたのかもしれない。



「安田さぁ、無糖?微糖?」
「蜂蜜入ってるやつ」
「ねぇよ、ばか」

微糖と書かれた缶コーヒーを投げ付けながら近くの椅子を引く。

「あっ…ぶねーだろ!」
「気にすんなよ、安田の癖に」

椅子に腰を下ろしながらプルタブを開け、傾けると口一杯に苦い香りが広がる。

「先生付けろ、あと敬語!」
「…気にすんじゃねぇーであります、安田の癖に先生」
「分かった。お前、英語より日本語を一から覚え直してこい」

こめかみを押さえながら安田がコーヒーを煽る。そして、変な顔をしながら此方を見てくる。

「…甘い、交換しよう」
「やだ」
「交換しよう」

微糖の缶を差し出す安田に溜め息を吐く。俺、どっちかっていうとお茶派なんだけどなぁ。
椅子から立ち上がり、安田を軽く踏みつけつつコーヒーを交換してやった。

「先生のこと踏むなよ」
「んー」
「あれ、お前…足の裏に傷あるんだ」

安田が指を指したのは俺の足。足の裏にうっすらと残っている傷痕は消えることなく存在し続けていたりする。

「え?なに?足フェチ?」
「誰がお前の足なんかに萌えるかよ」


安田はそういって俺のコーヒーを口に含んだ。
俺は足フェチだったらキモいなとか思いつつ、安田の爪先に体重をかけるのだった。


昔々、俺がまだ本当に小さかった頃、妹と喧嘩して家を飛び出したことがある。
足に怪我をした。
その時の傷はいまだに残っている。
助けてくれた人がいた。
名前や顔なんて覚えていない。
ただ、赤枯れのような髪の色だけは脳裏に焼き付いていて忘れられそうにないらしい。

痛みに悶える安田を見ながら、こんな色だったなとか思い出す。
いや、中身は全然違うんですけどね。








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