一郎のお父さんが控え室に押し掛けた記者逹を追い返すのを通路の壁から隠れる様に見ていた。一郎に会うか会わないか、迷いに迷ったままここまで来てしまった私は記者が去った後も案の定控え室の扉の前にも立てずにいる。

追い払ったと言う事はつまり、相手をしていられない状況だと言う事だろう。試合中苦し気に顔を歪めていた彼が脳裏を過る。どこか深刻な負傷を負っているに違い無いこの状況で、あの扉を押す勇気を私は持ち合わせていない。

やはり試合自体見に来るべきでは無かったと後悔した。同時に、いつも同じ後悔を繰り返す自分が可笑しくて笑ってしまう。学習しない人間だ、全く。


「…分かんないな」


ボクシングに打ち込む彼の事も。
頭では分かっているのに自分を楽にしてくれるたった一言が言えない私自身も。
試合前には減量で苦しんで、試合では殴って殴られて、終わったって何か怪我してるんじゃないか後遺症なんか残るんじゃないか。待つ側はそんな不安だらけだ。試合を見に行かなければ良いと分かってるのに、『もし』何かあったらと考えて、いてもたってもいられなくなって私はまた後楽園ホールの一番リングから遠い場所で、眩い光に照らされる一郎を観ている。

天才的なセンスとは裏腹に実は一郎が打たれ弱い事も知っている、生死に関わるような危険なカウンターを打つ事も知っている、そのくせ絶対に諦めたりなんか出来ない彼はいつだって意識が無くなるまで立ち上がってみせる。根性なんていっそ捨ててしまえと何度思ったか。


「あ、」


ガチャリ、

控え室の扉が突然開いて思わず通路の角にまた隠れてしまった。医務室は反対側にある筈なのに近付いて来る足音に心臓がバクバクとのたうち回る。隠れている人間の心境は不思議で、何も悪い事などしていない筈なのに酷く緊張して体が強ばってしまうのだ。

とうとう足音は止まり、頭上から落ちてきた影と汗のにおい、俯いた状態の私の目の前に現れたテーピングが巻かれた手にははっきりと見覚えがある。


「いつ入ってくんのかと思ってた」


脇腹を押さえた状態で壁に寄り掛かっている一郎を見上げる。呼吸は明らかに苦し気で今にも倒れてしまいそうだ。


「寝て、なよ」


「目が赤いぜ」


「医務室は?行ったの?」


「今から。なあ、泣いたわけ」


「目にゴミが入って擦ったの」


「ふーん、両目に?」


「…そうだよ。早く医務室行きなよ」


「お疲れ様ー、とか無いのかよ」


「……良いから早く、医務室行って…」


お疲れ様なんて。今だって、こんな怪我して私なんかに構ってないで、さっさと医務室に行って欲しいのに。試合中なんかリングに私が割り込んでやりたい気分だった。嫌な気持ちばっかりで、労いの言葉なんかかけられる訳が無い。


「…悪い、ちょっとからかったつもりだった」


泣くなよ。
そう言って骨ばった指の背で私の頬を伝う液体を拭ってくれる。一郎を応援出来ない自分が本当に嫌になるのに一郎はそんな私をあまつさえ慰めて、謝ってくれる。
だからせめて私は、彼が一番嫌がる言葉だけは絶対に言わないと決めているのだ。飛び出そうになる言葉は全部涙にしてしまった方がまだマシ。

『ボクシングを止めて』って、言ったら一郎が何て言うか私には分かるから。あなたにとって何が一番大切か分かってはいるつもりだよ。


「肋骨が痛いんだ、医務室までお前が連れてってくれよ」






雁字搦め





もう止めよう。私には荷が重い人だった、こんなに辛いなら別れてしまおう、そう思った事は何度もあった。でも試合が終わって私を見つけると彼が一番にしてくれるキスで、そんな考えは呆気なく何処かへ消え去ってしまうのだ。

通路の角で人知れずしたキスは、少しだけ血の味がした。




(私を解放する言葉は『さよなら』の一言だけ。だから、無いのと同じこと)

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ランディー戦後のつもりです。日記のお話から調子乗ってノリノリで書いてすいませんでした…!←
粗末な物ですが勝手にむぎ様に御捧げします(;・∀・)てへべろ←

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