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6

束の間のインターバル

6月上旬の土曜日、昼ご飯を食べ終えた午後1時。私は大学構内の図書室に来ていた。図書室、と言うよりは図書館、と言った方が正しいだろうか。広大なスペースは所狭しと本で埋め尽くされていて、そこら辺の小さな図書館よりも蔵書数が多いかもしれない。この図書館には、1人がけの区切られた自習スペースやグループワークで使用できる大き目の個室スペースが設けられている。私達はその個室スペースを利用して作業することになっていた。
指定された個室スペースに向かう足取りは重い。課題が面倒だからとか時間がかかりそうだからとか、そういう理由ではなく、彼と一緒に作業するということが憂鬱なのだ。それでもこうして約束通りの時刻に約束通りの場所に向かっているのは、人としてのマナーというやつだった。約束したからにはすっぽかすわけにはいかない。ただ、それだけ。
扉を開ければ個室スペースには既に彼がいて、私が入ると少し驚いた様子で、来てくれたんだ、と言った。自分からあれだけ執拗に誘ってきたくせに、よくそんなことが言えたものだ。私は机の上に鞄を置いてから備え付けのパソコンを起動させた。作業はさっさと終わらせてしまいたい。


「一方的とは言え、約束したからには来るしかないでしょ」
「俺と2人なんて嫌だろうからすっぽかされるかと思ってた」
「…いくら嫌でもそんな非常識なことしないし」
「そういうところ、ほんと真面目だよね」


くすりと笑った彼に早速カチンときてしまったけれど、私は平静を装う。すっぽかせるものならすっぽかしていた。けれど、私の中の良心とか常識的な判断能力とか、そういうものがそれを邪魔した。これは真面目かそうじゃないかという問題ではない。常識があるかないかという問題なのだ。
無言でパソコンが起動されるのを待っている私の顔は、果たしてどんな表情になっているだろうか。少なくとも笑顔でないことは確かだけれど、あからさまに不機嫌さを露わにしないように気を付けなければならない。これもまた、常識の問題だ。いや、まあ彼に対してはもう、常識云々で対処できなくなっているのだけれど。
パソコンが起動して、じゃあ始めよっか、と彼が言った。その言葉を皮切りに、私達はせっせと作業に取り組み始める。図書室から本を引っ張り出してきて参考文献としてまとめたり、インターネットから必要な情報だけを引用して添削したり。意外にも、作業はかなりスムーズに進んだ。無駄に話しかけられたりしそうだなと懸念していたけれどそういうこともなく、彼はなかなかに効率的な働きっぷりだった。黙っていれば無害。むしろ好感が持てる。けれど、会話をし出すと有害。厄介な男である。


「こんなもんで良いかな」
「良いんじゃない?」
「首席入学の名字さんがそう言うなら間違いないね」
「前もきいたけど、それ、喧嘩売ってる?もしくは馬鹿にしてる?」
「純粋に褒めてるんだよ。首席とか凄いじゃん」


彼はもしかしたら本当に純粋な気持ちで褒めてくれているのかもしれなかった。けれど、私はどうしてもその言葉を素直に受け入れられない。彼からだけではなく、誰にそれを言われたって同じ気持ちだ。


「こんな大学で首席でも全然凄くない」
「え?」
「私は、こんな大学に来る予定じゃなかったの」
「どういう意味…?」


ポロリと本音が飛び出してしまいハッとして彼を見れば、怪訝そうな顔を浮かべられていた。彼のこういう顔は、もしかしたら初めて見たかもしれない。それほど不愉快になるようなことを言ってしまったのだと思うと罪悪感が湧いてこないこともないけれど、でも、これが私の本音なのだから隠しようがなかった。嘘を吐いたってきっと彼にはバレてしまう。彼は無駄に聡い人間だから。それならばもういっそのこと、本音をぶち撒けてしまってもいいだろうか。


「本命の大学に落ちて…ここは滑り止めだったの。だから私はこんな大学で4年間を過ごすつもりなんてなかった」
「こんな大学…ね」


本気でこの大学を目指していた人にとって失礼な物言いをしているということは分かっている。彼も本気でこの大学を目指していた1人かもしれない。先ほど怪訝そうな表情をされていたこともあって、更に気分を害してしまっただろうかと今更のように後悔した。やっぱり言うんじゃなかった、って。
私は1度スイッチが入ると言いすぎてしまうところがあって、だからいつも、本音は言わないように注意してきた。自分の感情を曝け出してしまったら、誰かを傷付けることが分かっているからだ。こんな性格であるがゆえに、なかなか友達ができないことも自覚している。けれど、そう簡単にこの性格を改めることはできなかった。プライドだけは高くて、でもこのプライドを失ったら自分には何も残らないような気がしているからだと思う。
彼は「友達」じゃない。けれど、また1人敵を作ってしまったなと落胆した。でもまあ、いい。こんなのいつものことだ。いつもの、失敗だ。


「今はそう思ってるかもしれないけど、4年もあればいつかはこの大学に来て良かったって思える日が来るかもしれないよ」
「え?」
「だってまだ2ヶ月ちょっとしか在学してないんだから。分からないでしょ」
「そんな日は来ない…」
「だから、それはまだ分からない」


怪訝そうに歪んでいた顔はいつの間にかいつもの澄ましたような表情に戻っていて、彼が怒っている様子はひとつもなかった。不愉快そうな素振りも見せないし、むしろ私を励ますような発言までして。彼はやっぱり変な人だと思った。けど、なんだかちょっぴり救われたような気がする。本当はそんなこと絶対に認めたくないのだけれど、今回ばかりは認めざるを得なかった。


「思ったより早く終わったね」
「ああ、うん、そうだね」
「今日バイトは?」
「夕方から夜まで」
「そっか、残念」
「何が?」


話題をするりと変えた彼は、いつかと同じことを言った。残念、って。ちっとも残念そうじゃないくせに、彼は口癖のようにそう言う。


「折角だから夜ご飯ぐらい一緒に食べたかったなと思って」
「どうして私が赤葦君と一緒に夜ご飯を食べなきゃいけないの?」


すっかりいつもの調子に戻っておかしな発言をする彼に、私もいつも通りの返しをした。というのに、彼は目を丸くして驚いていて、何かおかしなことを言っただろうかと自分の発言を思い起こしてみる。けれど、特に驚かせるようなことは思い当たらなかった。


「名前…」
「は?」
「俺の名前。初めて呼んだね」


指摘されて漸く気付いた。初めて彼を「赤葦君」と呼んだことに。何の意識もしていなかったけれど、勝手に口から彼の名前が飛び出していたらしい。けれど、別にそんなことは何も特別なことじゃない。知り合いの名前を呼ぶぐらい普通のことだ。それなのに、たったそれだけのことで、まるで勝ち誇ったかのように笑う彼が不思議でならなかった。


「ていうか俺の名前知ってたんだ」
「まあね」
「いつも、あなた、って言われるから知らないのかと思ってた」
「呼んじゃいけなかった?」
「はは、そんなことないよ。むしろ嬉しい」


俺ちゃんと名乗ったことないのにね、って含み笑いをする彼が憎たらしかった。彼の名前を知りたくて私が人伝に聞いたということには、恐らく気付かれている。これじゃあまるで私が彼のことを凄く気にしているみたいで癪だったけれど、ここで何か発言しようものなら返り討ちに遭うような気がしたのでぐっと堪えた。
出来上がった資料をまとめてファイルに突っ込む。パソコンの電源は切ったし、時間的にもちょうど良い。私は、もう行くから、と彼に背を向けた。別に逃げているわけじゃない。バイトの時間が迫っているからさっさと帰らなければならないだけだ。そんな、誰に言うでもない言い訳みたいなことを内心で唱える私に、バイト頑張ってね、と悔しくなるほど爽やかに言ってくる彼は、やっぱり苦手だと思った。お願いだからこれ以上、私のペースを乱さないで。そう、思った。