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僕らの世が開けた日のこと

※社会人設定


今世紀最大の一大事だ。私は携帯の画面を見て、膝から崩れ落ちるようにしてベッドに倒れ込む。もうやだ。なんでこんなことになっちゃったんだろう。ほんの1週間前の忌々しい出来事を思い出しながら、私は涙を滲ませた。


◇ ◇ ◇



1週間と2日前の夜。私は会社の上司に話があると言われて、とある飲食店にいた。その席にいたのは、私と先輩の2人だけ。でも、いつもお世話になっている先輩だし、プライベートで食事に誘われたことなど今まで1度もなかったから、てっきり今回も仕事の話だと思い、何の不信感も警戒心も抱いていなかった。それに何より、私に婚約者がいることはその先輩も知っていたから、まさかあんなことになるなんて夢にも思っていなかったのだ。


「実は俺、名字のことが好きなんだ」
「え?…はい?」
「名字に婚約者がいることは知ってる。けど、今自分の気持ちを伝えておかないと後悔すると思って…」


失礼な物言いだとは思うけれど、自分勝手も甚だしかった。私如きに好意を寄せていただいたことは有難いと思う。けれど、来週式場選びに行こうかと思ってるんです、なんて話をした後でカミングアウトをするのは如何なものか。伝えるにしてもタイミングが悪すぎる。
しかも、今の婚約者と俺を比べて少しでも迷う部分があるなら結婚は考え直してくれないか、ときたもんだ。なかなかの自信過剰っぷりである。だがしかし残念ながら、すみません、全く迷っていません。私は彼に夢中なのであなたのことは眼中にないんですよ。というのが本音。勿論、一応は上司なのでそんな失礼な言い方はしなかったけれど、そういうニュアンスのことを伝えて丁重にお断りした。
が、問題はここから。その日の帰り道、ご丁寧に上司と私のツーショット写真(しかも上司が私の方に身を乗り出して手を握っている最悪なシーン)付きで、これどういうこと?という彼からのメッセージを見た私は愕然とした。どういうこともこういうこともない。これじゃあまるで私が浮気してるみたいじゃないか。
どうやら不運なことに、上司との現場を彼の友人に目撃されていたらしい。私から事の次第を説明する前に彼にリークされてしまったので、私は彼に、自分に内緒で見知らぬ男と密会している最低な女として認識されたことだろう。
当たり前のことながら、私はすぐさま包み隠さず彼に全てを説明した。謝罪もした。婚約者がいると言ってある相手だったから油断していた。迂闊だったと。聡明で冷静な彼のことだから、説明すれば分かってもらえる。きっと大丈夫。そう信じていたのに、全ての説明と謝罪が終わってからの彼からの返事は「へぇ、そう」の一言のみ。これはたぶん、否許してもらえていないような気がする。
今まで付き合ってきて、喧嘩らしい喧嘩をしたのは数えるほど。それも、大体は私が1人で怒っていることが多くて、彼の方はいつも通り。ただ、私は知っている。彼が怒ったらもの凄く怖いということを。そして今まさに、私は彼にその怒りをぶつけられている。
私がベッドに倒れ込む原因となったのは、彼からのメッセージ。今日会えない、と。シンプルに用件だけが綴られていることが何より怖かった。式場選びに行こうと言っていた日がまさしく今日。それをドタキャンされた。普段そんなことをしない人だからこそ、事は深刻さを増す。
確かに、いくら会社の上司とは言え、男女2人きりで食事に行ったのは軽率だった。私が幸せボケしすぎていて迂闊だったことは認める。けど、悪気はなかった。浮気なんて以ての外。ちゃんと説明もして謝罪もしたのに、これ以上どうしろって言うんだ。もう少しで結婚。幸せ絶頂まっしぐら。の予定だったのに、一気に谷底へ突き落とされた気分。


「……買い物行こ…」


2人で式場選びに行って、その後ランチ。それから楽しくお買い物。そんな予定は総崩れ。今の私には空っぽの冷蔵庫だけが残されていて、空腹さえ満たせない。このまま家に閉じこもっていたら本気でカビが生えてしまいそうなほどジメジメした心を払拭すべく、私は気分転換も兼ねて買い物に出かけることにした。
身体は泥のように重たい。けれども、太陽の光を浴びると少しばかり元気になれたような気がする。彼との関係だって、日が経てばきっと落ち着くはず。うん、大丈夫大丈夫。漸くそうやって無理矢理にでも気分を浮上させられてきた時だった。彼が見知らぬ女性と2人で歩いている姿を目撃したのは。
見間違いだと思いたい。でも、あれは絶対に彼だった。隣にいた綺麗な女性は誰だろう。まさか腹いせに浮気された?いやいや、彼に限ってそんなことは有り得ない。と、思う、けど。これを機に婚約破棄とか、ないよね?でも、私との予定をドタキャンしてまでその人と会ってたってことは、もしかして、もしかするの?
考えれば考えるほど最悪な未来しか想像できなかった。気分転換に外に出たりなんかしなければ良かった。家に閉じこもっていたらあんな光景見なくて済んだのに。浮上しかけていた気持ちは一気に急降下。もはや墜落だ。
空腹なんてどうでもよくなって、家に帰ってまたベッドに埋もれた。それからちょっぴり泣いて、寝た。起きたら外はすっかり暗くなっていて、あれから数時間が経過したらしいのに携帯には誰からも何の連絡もなくて、またほんの少し泣いて。ちっとも面白くないお笑い番組を真っ暗な部屋で流しながら、眠たくもないのにまた寝ようとした。抜け殻のような状態ってこういうことを言うのかあ、って他人事のように思った。
そうしてまた時間が過ぎていって、日付けを跨ごうとしている頃。ピンポーン。チャイムが鳴った。こんな時間に。無視した。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。…しつこい不審者だ。
のそり。重たい身体を起こして、音を立てないよう気を付けながら玄関に向かう。どんな輩がこの時間帯に嫌がらせをしにくるのか。その顔を拝んでおいてやろうと覗き穴から覗いて、後退り。どすん。よろけた拍子に壁にぶつかり、音を立ててしまった。


「いるの分かってるから。開けて」


扉の向こうの彼は、静かにそう言った。今日会えないって連絡してきたくせに。私以外の女と一緒に楽しそうにお出かけしてたくせに。こんな時間に来るなんて非常識だって思わないの?
混乱が怒りを生んで、でも彼の声を聞いただけで安心している自分もいて。何が何だかさっぱり分からないけれど、居留守が使えなくなってしまった以上追い返すのは憚られて、私はゆっくりと扉を開けた。そうして久し振りに顔を合わせたというのに、彼が発した第一声は。


「ひどい顔」
「…誰のせいだと思ってるの」
「その言い方だと俺かな」
「全然悪気なさそう」
「悪気がないからそうだろうね」


淡々と言葉を発する彼はこんな時間に押しかける非常識さとは相反して、お邪魔します、と礼儀正しく呟いてから私の家に勝手に上がり込んだ。もはや常識も非常識もあったもんじゃない。マイペースもいいところだ。でも、彼がそういう人だってことは私が1番よく知っている。
そりゃあ婚約者なので、彼は何度もうちに来たことがあった。だから、真っ暗な部屋の電気をパチリと点けて迷いなくリビングに行くことなんて容易にできる。そんな、いつも通りを貫く彼の背中に、何しに来たの、と刺々しい言葉を投げつける私は、ダメな女だと思う。
元はと言えば私が悪い。だからこんな態度を取るのは間違っているのかもしれないけれど、それでも、普通に振る舞えるほど心の整理ができていなかったのだ。そんな私の様子にイラつくこともなく、彼はポケットから小さな箱を取り出した。そう、ドラマとか映画とかで見たことのある、女の子の夢が詰まった、あの小さな箱だ。


「これ、渡そうと思って」
「…なんで、」
「なんでって。婚約者に婚約指輪渡すのに理由がいるの?」
「そうじゃなくて、なんでわざわざこの時間に…今日の予定ドタキャンしたくせに…」
「これ手に入れるのに時間かかったんだよ。知り合いにお店案内してもらったお礼とかしてたらこんな時間になっちゃって。でも早く渡したかったから」


連絡ぐらい寄越してよって言ったら、女性はこういうことサプライズでしてもらう方が嬉しいって前言ってたよね?って。私がいつかポロリと零したセリフを、彼は覚えていた。


「もう怒ってないの?…私が会社の先輩と2人で食事に行ったこと」
「そりゃあ少しは怒ってたけどね。いつまでも引き摺ったりするほど嫌な性格じゃないつもりだし」
「式場選びの予定ドタキャンされたから、私、もうダメなのかと思って…」
「式場選びより指輪の方が優先かなと思って。ほら、虫除け代わりにもなるし」


たぶんサイズぴったりだと思うから、と言って箱から取り出したそれを私の左手の薬指にするりと嵌めて、ほらね、と満足そうな彼。私が少し前に雑誌を見ながら、これ可愛いなあってぼやいていたのを、ちゃんと聞いていたんだ。この指輪、高いのに。
勝手にネガティブなことばかり考えて、もう終わりかもって思っていた自分が、本当に馬鹿馬鹿しくなった。こんな私に愛想を尽かさず、彼は笑いながら言う。ほんとにひどい顔だね、って。それに対して私はこう答える。


「京治のせいだよ、」
「そうだろうね。…そうじゃないと困る」
「どうして?」
「名前のこんな顔、他のやつには見られたくないから」


好きだなあと、心から思わされた。ひどい顔をした私を正面から抱き締めてくれる、そんな人に出会えて良かったって。式場選びは来週にしよう。この指輪をつけて、この先のことを話しながら色んなところを見に行こう。そんな風に思った。
その日の夜、彼は私の家に泊まった。狭いシングルベッドでぎゅうぎゅうと互いの体温を感じながら眠って。翌朝目覚めた時、私の視界に真っ先に入ってきたのは、左手の薬指。銀色の指輪が朝日を反射して眩しかった。
赤葦くんはきっと懐が広いと思う。ちゃんと独占欲もあるし嫉妬もするけど、上手に彼女を甘やかせる良い男。パーフェクトガイ。結婚したい。


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