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浮遊する忘却を掴まえた


冷静になって振り返ってみると、たった2回目のセックスのくせに随分と大胆な言動をしてしまったものだと頭を抱えたくなった。一也君の目に、私はどう映っていただろうか。全てが終わった今になって、身形を整えながら不安になる。何も話しかけてこられないこともまた、不安要素のひとつだ。
そんな不安が伝わったのか、なあ、と。一也君が私に声をかけてきた。それはそれで、何を言われるのだろうかと不安になるのだから困ったものである。けれども、不安だからといって無視をするわけにはいかないし、その声音はいつも通り…よりも少し優しいような気がしたから。私はゆっくりと一也君の方に顔を向けた。今更だけど、とても、恥ずかしい。


「もう帰る?」
「あ、うん、そうだね、」
「じゃあ送ってくわ」
「いいよいいよ!1人で帰れるから!」
「すげぇ方向音痴なのに?」
「…たぶん……大丈夫…」
「今更遠慮してんの?」
「そういうわけじゃ…」
「それとも、ああいうことした後で俺といるのが気まずい、とか?」


当たらずとも遠からずといったところだろうか。気まずいという言い方が合っているのかは微妙だ。けれど、どんな顔をして一緒にいたら良いのか分からないから、できればこの空間から早く飛び出したいと思っているのも本当だった。
返答に困っている私に、一也君は溜息をひとつ零す。先ほどまでの行為も含めて、これで嫌われてしまったらショックで立ち直れない。その行為に及んだこと自体は後悔していないけれど、もっと自分をどうにかして制御すべきだったと反省はしているから、どうか愛想を尽かさないでほしい。そんなことを考えている私に、言っとくけど、という前置きをしてから告げられた一言は、いつも余裕綽々な一也君にしてみれば意外なものだった。


「こっちもそれなりに恥ずかしいんだからな」
「そうなの…?」
「そりゃそうだろ。俺は誰かさんと違って初めてだったし」
「えっ!うそ!」
「こんなことで嘘吐かねぇよ…」
「でもあの、なんていうかその、すごく、慣れた感じ…だったような…」
「そりゃどーも。ほら、行くぞ」
「ちょ、待って、」


私を置いて部屋を出て行ってしまいそうな一也君の背中を慌てて追いかけていて気付いた。一也君の耳、ちょっと赤い。ということは、さっき言ったことって本当なんだ。一也君はモテるから、きっと今までにそういうお誘いだってされたことがあるだろう。それなのに、初めての相手は私だった。それがどんなに特別で嬉しいことか。そして同時に、私は一也君と違って初めてではなかったことが、悔やまれてならなかった。
別に初めてかそうじゃないかなんて重要なことではないのかもしれない。いちいち気にすることじゃないだろって思う人もいるだろう。けれど、私にとって、そしてきっと一也君にとっても、それは少なからず重要なことだったんじゃないかと思う。だからこそ、嬉しい反面落ち込んだ。落ち込んだところで過去の行為がなくなるわけではないのだけれど、それでも、一也君と初めてを分かち合いたかったな、なんて身勝手なことを思ってしまった。
一也君の後ろをとぼとぼと歩く。凄く幸せなはずなのに、なんだかとても切ない。そんな私の心を見透かしたかのように、名前、と名前を呼んでくれた一也君の声はやっぱり優しかった。


「正直、名前に彼氏がいたことも、そいつに初めてを全部持って行かれたことも、まだ少しは気にしてる」
「…ごめん、」
「餓鬼の頃の約束なんかずっと引き摺って女々しいってことは分かってるけど」
「そんなことない!そんなこと…ないよ…」


だって、私もちゃんと覚えていた。いつか迎えに来てくれたらって思っていた。でも、大人に近付くにつれて怖くなっていったのだ。自分だけが過去の約束に囚われていたらどうしようって。置いてけぼりにされたらどうしようって。それが怖くて、私は約束を忘れたフリをした。いつか一也君と再会した時に自分が傷付かなくて済むように。けれどもそうしたことで、私は一也君を傷付けた。
きっと一也君だって、少なからず同じ不安を抱いていたはずだ。それでも私のことをちゃんと想い続けてくれていた。再会して、私が裏切ったことを知って、冷たく当たって。でもそれは当然のことだ。そうされて然るべきだった。それなのに私は、まるで自分の方が辛いみたいな、傷付いたみたいな、悲劇のヒロインぶったりして。一也君は結局こうして、どうしようもない私を求め続けてくれて、昔みたいに手を取ってくれたというのに。


「まあ、もういいわ」
「もういい…?」
「今名前が好きなのは俺だろ?」
「うん」
「じゃあ、もういいってことにしとく」


一也君は優しい。昔からずっと。不器用なところはあるけれど、ちゃんと私のことを大切に想ってくれている。だから今度はちゃんと、私も自分の気持ちを素直にぶつけないとね。
前を行く一也君の手に思い切って自分の手を絡めてみる。ぎょっとした様子で、なんだよ、とぶっきら棒に言ってくる一也君に、こうしたい気分なの、と我儘を言えば、あっそ、という素っ気ない返事をされた。けれど、振り払われないところをみると、どうやらこのままでも良いらしい。誰かに見られたら揶揄われちゃうかな。ていうか、付き合ってるってこと、バレたらまずいんだっけ?まあもうそんなことどうでも良いや。
そういえば、こうして2人で並んで歩くのは初めてかもしれない。恋人っぽいなあって、たったこれだけのことで胸がいっぱいになる。恋人っぽいっていうか恋人なんだけど、でも、それっぽいことって一也君とはあまりしたことがないからとても新鮮だ。


「こんな状態でも部活には出るから、今日みたいに会うのは無理だと思う」
「うん、分かってる」
「医者から許可が出たらすぐ練習に復帰するし、冬休みもクリスマスも部活で会えねぇのは確実だな」
「そうだろうね」
「正月は実家に帰るつもりだから、そん時には会えると思うけど…」
「いいよ。無理しなくて」


一也君はきっと気にしてくれている。私よりも野球が優先になってしまうことを。けれどもそんなの、最初から分かっていたことだ。一也君にとって野球がどれほど重要なものか、私はよく知っている。だから、野球ばっかりで私のことなんかどうでも良いんだ、なんて思うことは絶対にない。だって一也君が野球を優先しなくなったら、それは一也君じゃないもの。
ぎゅっと、一也君の手を握る力を強めてみる。毎日毎日何時間もボールを受け止めて、投げて、バットを振っているごつごつした手は、大きくて温かい。私はこの手が好きだ。手だけじゃなくて、腕も、脚も、お腹も、顔も、髪も、全部全部、一也君のものであるならば何だって大好き。


「もう離れないから、大丈夫」
「…随分と頼もしいこと言ってくれるじゃん」
「惚れ直してくれた?」
「何言ってんの」
「冗談だもん」
「今更、惚れ直すも何もねぇだろ」


こっちは何年もずっとお前に惚れっぱなしなんだから、って。なんでこの人はそんな嬉しいことをさらりと言ってのけちゃうんだろう。私の方が惚れ直しちゃうじゃないか。いや、もうこれ以上ないってほど惚れてるけど。これじゃあ私達、まるでバカップルみたいじゃない?
冬休みもクリスマスもお正月も、その先の春休みもゴールデンウィークも夏休みも、一也君とゆっくり過ごせる時間なんてきっとないのだろう。それでも良い。一也君の傍にいられれば、それだけで。けれどもやっぱりこうして手を繋いで歩けるのは幸せで堪らないから、この気持ちを、この温度を忘れないように。私はまたぎゅうっと手を握った。痛ぇよ、と言う一也君の顔は、ちっとも痛そうじゃなかった。