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#20




「名前」
「なんですか」
「前から言っとるけど、いつになったら敬語やめてくれるん?」
「それはまあ…徐々に」
「その答え聞き飽きたわ〜」


月日は流れ、季節は夏を過ぎ、秋も冬も飛び越えて、再び春から初夏になっていた。侑さんと出会ってちょうど1年。私達の関係は、自分で言うのもなんだけれど順調だ。小さな言い合いや喧嘩は数え切れないほどするけれど、別れ話や浮ついた話はなんと1度もなく。
いつしか侑さんは私の名前を呼び捨てにするようになって、つい先日からは同棲まで始めてしまった。勿論、侑さんに押し切られる形で。祖父母は侑さんのことをとても気に入っているようで同棲には全く反対されなかったけれど、堅物な思考の持ち主である私からしてみれば、同棲は結婚とかそういうことが決まってからでしょ…というのが正直な感想だ。
結婚。意識していないと言えば嘘になる。20代半ばを迎え数少ない友人の中には結婚した子もいるし、これだけ長く付き合えているのも始めてのことだから。とは言え、もうすぐ付き合い始めて1年程度。そう、まだ1年程度なのだ。
侑さんは、付き合い始めた時から変わらず私を大切にしてくれている。ついでに、強引で、ずかずかと土足で私のテリトリーに入ってくるところも変わっていない。
ちなみに、恐らく私も根本的なところは何も変わっていないと思う。頑固で、表情の変化に乏しくて、特に仕事に関しては効率重視のクソ真面目。口下手で、自分の考えや思っていることを伝えるのが苦手。まあ、人間なんてそう簡単に根っこの部分は変わらないものだ。


「名字さんって今日の夜なにか用事ある?」
「特にありませんけど…」
「先週ひと段落したプロジェクトの打ち上げ、まだやってなかったからやらないかって話があって。名字さんも来ない?」
「私も参加して良いのならぜひ…」
「オッケー!また声かけるね!」


そういえば、こういう飲みのお誘いが以前より増えたのは、侑さんと付き合い始めてからかもしれないとぼんやり思う。少し前、同僚から言われた。名字さん雰囲気が変わったよね、と。それが関係しているのかは分からないし、そもそもどんな風に変わったのかも不明なのだけれど、良い方向に変わっているのだとしたら侑さんのおかげだと感謝しなければならないのかもしれない。
まとめ終えた書類を整理して時計を見遣る。午後の仕事は順調に終わりそうだし、この調子でいけば打ち上げの飲み会には遅れずに参加することができそうだ。と、ホッと胸を撫で下ろした時だった。隣の席から嫌な視線を感じてそちらを向けば、案の定、不機嫌そうな侑さんと目が合う。


「なんですか…」
「最近飲み行くこと多ない?」
「そうですっけ?」
「先週も女子会かなんか行きよったやろ。で、その前も上司の誘いで帰り遅かったやん」
「ああ…でも侑さんだってそれなりに飲み会に行くでしょう?年度始めですし仕方ないですよ」
「……せやな」


私の言い分はもっともだと納得してもらえたのか。侑さんはいつもよりもかなりすんなり引き下がると、席を立ってどこかに行ってしまった。機嫌は直ってなさそうな雰囲気だけれど、そのうち元に戻るだろう。私は特に気にも留めず仕事に戻った。


◇ ◇ ◇



打ち上げという名の飲み会は最初から最後まで楽しい空気のまま終わった。二次会行く?というお誘いは丁重にお断りして、私は帰路につく。侑さんと同棲を始めて1ヶ月が経つけれど、いまだに誰かと一緒に暮らすという状況は慣れない。
私はポケットから携帯を取り出すと、今から帰るという旨の連絡をする。これをしないと侑さんはかなり怒るのだ。子どもじゃあるまいし…と思いつつも、心配してもらえるのは有難いことだと言い聞かせて面倒臭いことにならないよう注意している。
連絡を入れて歩くこと数分。いつもならすぐに返事があるのに、今日は珍しく反応がない。まあ別に構わないのだけれど、もしかしてまだ昼間のご機嫌ナナメが続いているのだろうか。だとしたら困ったものだ。
結局、返事はないまま家に到着した。ただ、電気はついていないし人の気配もない。あれ?侑さん、帰ってない?まだ仕事?それとも誰かと飲みに行った?何の連絡もないから知らないけれど、明日は土曜日だし飲みに行ってしまったのかもしれない。
とりあえずシャワーを浴びて寝る支度を進め、なんだかんだで時刻は日付が変わる15分前。相変わらず携帯には何の連絡もないままだし、いい加減そわそわし始める。
人には帰る前に必ず連絡しろと口を酸っぱくして言ってくるくせに、自分は良いのか。男と女の違いだと言われるかもしれないけれど、そんなの納得できない。こうなったら電話をかけ続けてやろうか。そんな強行策が頭を過ぎった時だった。
がちゃん、と鍵が開く音がした直後、ドタバタと騒がしい足音。夜中なんだから少しぐらい静かにしようという気配りをしてほしいところだけれど、急いで帰ってきたということなのだろうから今回だけは大目に見ることにして。私はリビングのソファに座ったまま、足音の主である同居人に視線を送った。勿論、不機嫌さを露わにして。


「寝るとこやった?」
「ええ。ちゃんと帰るって連絡もしましたけど」
「ごめんて。そない怖い顔せんでもええやん」
「遅くなるなら連絡してほしかったです」
「心配してくれとったん?」
「人には連絡しろって言うくせに自分はしないんだから…それにちょっと怒ってるだけです」
「今日は特別。急いどったんやもん。間に合って良かったわ〜」


何が間に合ったというのか。私はさっぱり分からず首を傾げる。侑さんはそんな私などお構いなしで鞄の中をガサゴソと漁り始めると、そこから1枚の紙切れを取り出して机の上に広げた。一体何だと見てみれば、それは驚くべきことに。


「婚姻届…?」


勿論、本物のそれを見るのは初めてで、私はただ目を丸くさせることしかできない。しかもその用紙は既に記入がしてあって、恐らく私が記入するところだけが綺麗に空白になっていた。証人の欄には侑さんのお父さんと私の祖父の名前が書いてある。ということは、侑さんが記入をお願いしに行ったということなのだろう。
よく状況が飲み込めていない私に、侑さんはボールペンを渡してきた。いやいや、ちょっと待って。さすがに言葉が足りなさすぎやしないか。


「実家まで行って帰ってきたらこんな時間になったんやけど、明日出しに行くんは間に合うやろ?」
「明日?なんで明日?」
「は?なんでて…明日でちょうど1年やん」


侑さんに言われて漸く思い出した。そういえば明日で私と侑さんが付き合い始めてちょうど1年になるのだ。つまり侑さんは、付き合い始めてちょうど1年になる明日、この婚姻届を提出したい、と。そのためにわざわざ証人欄を書いてもらうためだけに実家に帰っていてこんな時間になったと。そういうことらしい。
だから今日、私が飲みに行くことに難色を示していたのだろうか。大切な日の前日なのにって。それならそうと言ってくれれば良かったのにと思う反面、気付かなかった自分が悪かったなとも思う。
ただ、別に仕事終わりに1人でそんなことをしなくても、明日中に動けば間に合わないこともなかっただろうに。というか、先に私に一言プロポーズってものをするのがセオリーじゃないのか。私が、結婚なんかしません、って言ったら、この紙切れはただのゴミになるってことを微塵も考えなかったのだろうか。そういうところが侑さんらしいと言えばらしいのだけれど。


「侑さんってほんと、ばかですね」
「は!?」
「こういうのを渡す前に、私に言うことがあるんじゃないですか」
「あ。せやった。言うん忘れとったけど、結婚しよ」
「嫌です」
「なんで!?嘘やろ!?」


この人は結婚をなんだと思っているのか。ドラマや映画みたいにロマンチックなプロポーズを望んでいたわけではないけれど、あまりにも軽すぎる一言に思わず、嫌です、と言ってしまった。私が間髪入れずに返事をしたせいか、侑さんは非常に焦っていて面白い。
なんで結婚したないん?俺なんかした?今まで浮気もしてへんし、これからもせぇへんって約束する!気分屋なとこもできるだけ直すし、あとは…家事もできるように頑張る!とにかく、俺は名前以外と結婚する気あらへんから!
一気に捲し立てた侑さんにはさすがにキョトンとしてしまったけれど、必死な表情から真剣さは充分すぎるほど伝わってきた。私はちゃんと侑さんに愛されてるんだって。


「侑さん」
「他に不満ある?」
「そうじゃなくて。…ありがとう」
「へ、」
「私のことを好きになってくれて、ありがとう」
「…そんなん今更すぎるわ」


侑さんの安堵したような、少し呆れたような優しい眼差しにゆるりと笑顔を返した私は、ボールペンを握ってさらさらとペラペラの紙切れに記入していく。これを役所に提出するというたったそれだけのことで、他人から夫婦になるなんて呆気ないなぁと思う。けれど、幸せなことだなぁとも思うのだ。
結婚はゴールじゃない。たぶん、新しいスタートだ。この先ずっと幸せでいたいなんて贅沢は言わないけれど、ただひとつ、お願いしても良いのなら。


「ずっと、好きでいさせて」
「それ、俺のセリフちゃう?」


馬鹿みたいにお互いを好きだって、愛してるって、この先ずっと思い合えますように。


物語はここがまりです