×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

夫婦にまつわるエトセトラ


※社会人、夫婦設定


「好きって言ってみましょうか」
「…は?」


朝起きてきて第一声、珍しく真面目な顔で夫から投げかけられたセリフはあまりにも唐突すぎて、私は思いっきり顔を顰めた。朝起きたらまずおはようでしょうが、とか、そんな風に注意する以前の問題。急に何を言いだすんだこの男は。ついに頭がおかしくなってしまったのだろうか。そんなことを思いながらカーテンを開ける私の背中に、頭がイカれてしまったかもしれない夫が言葉を続ける。おお、今日は素晴らしい快晴のようだ。


「今日いい夫婦の日じゃん?たまにはいつも口に出せないことを言い合いましょうよっていう提案」
「ああ…なるほどね」
「何そのどうでもいいわって感じの反応」
「だってどうでもいいもん」


どうやら頭はイカれていないらしかった。が、だからといってその提案を、はいそうですか分かりました、と飲み込めるほど、私は物分かりが良くない。というか、そんな恥ずかしいこと今更言えるかっていうのが本音だ。
結婚して3年。結婚当初ですらそんなに口にしたことのないその言葉を、なぜ今になって言わなければならないのか。彼の突拍子もない思い付きはいつものことだけれど、今回はなかなかに酷い。何がいい夫婦の日だ。ただの語呂合わせに振り回されるなんて堪ったもんじゃない。
私は彼の提案を当たり前のように無視した。ただでさえ朝は忙しいのだ。わけのわからない戯言に付き合っている暇はない。顔を洗って朝ご飯を食べ、歯を磨いて着替えと化粧を済ませる。その合間に洗濯と食器洗い、それからゴミ出しの準備…と、忙しなく家の中を行ったり来たりしている私に、平均よりズバ抜けてデカい男が付いて来るのが非常に鬱陶しい。きっちりとスーツを着ているところを見ると出勤の準備は整っているのだろうけれど、それならばリビングの椅子に座ってコーヒーでも啜っていてほしいものだ。そう思いながらも、私は彼の存在を気にしないようにしていた。が、さすがにトイレの前まで付いて来られては黙っていられない。


「暇ならもう仕事行きなってば!」
「好きって言ってくれるまで行きませーん」
「何馬鹿なこと言ってんの!遅れるよ!」
「まだ時間じゃねぇし」
「口答えしないの!」


バタン!と。勢いよく扉を閉め、私はトイレに閉じこもる。彼の謎のネチッこさは結婚する前から。緩そうに見えて、こうと決めたらなんだかんだで絶対に譲らないところがある。変なところで頑固なんだ、鉄朗は。まあそれはお互い様かもしれないけれど。
トイレの前から気配は消えていない。ということは、私のことを、否、私がその言葉を言うのを、待っているのだろう。
朝の忙しい時間帯。こんなどうでもいい攻防戦は、好きだよって。サラリと言って終わらせれば良い。でも、無理。キャラじゃないもん。そんなこと、鉄朗が1番よく知っているくせに。


「そもそもなんでそんなこと今更言わなきゃいけないの」
「いい夫婦の日だからって言ったじゃん」
「そういうのいちいち乗っからなくて良いから」
「それにほら、俺の誕生日には結局言ってくんなかったし」


それを引き合いに出されたら、私は口籠るしかない。だって、好きって。言わなくても分かるじゃん。好きだから結婚したんだし、好きだから今も一緒にいるんだもん。それらを口にすることができたらどんなに楽だろう。でも残念ながら、私はそんなに素直でもなければ可愛くもない。
それに、さあ。そんなこと言うけど。


「鉄朗だって、最近言ってくれてないじゃん…」


ぽろり。思わず口からこぼれてしまった。小さな声ではあったけれど、薄い扉を隔てた向こう側にもきっと聞こえているに違いない。こんなことを言うつもりはなかった。けれど私の呟きは紛れもない本音だ。
元々口下手な私と違って、鉄朗は平気で好きだとか愛してるとか言うタイプの人間で、結婚当初はよく恥ずかしげもなくそれらの言葉を浴びせられた。時には茶化したように、時には真剣に。それに対して、恥ずかしいからやめてよ!と言っていた私だけれど、本当は嬉しかった。だから、本当に時々ではあったけれど、私もそれらの言葉を返していた。いつから言われなくなったんだろう。そして、いつから言わなくなったんだろう。それすらも分からない。
なんだかもう何を争点にしているのかすらも曖昧になってきて、意味不明だけど泣きそうになってきた時。扉の向こうから声が聞こえた。


「好きだよ」


最近聞いていなかった、陳腐な愛の言葉。でもちゃんと、気持ちがこもっていることが伝わる。じわじわ。久し振りの感覚に胸が熱くなっていく。込み上げてきたはずの涙も一瞬で引っ込んで、でも、私は何も言えなくて。


「こういうこと言うの昔から苦手だもんな。悪かった。仕事行ってくる」


申し訳なさと、寂しさと。それらを纏った言葉を残して、気配が遠ざかっていくのが分かった。と同時に、私には罪悪感と後悔の念が押し寄せてくる。ちゃんと言えば良かった、って。自分の気持ちを恥ずかしがらずに伝えれば良かった、って。私はいつも気付くのが遅い。


「私だって好きだもん。昔みたいにラブラブしたいって思ってるもん…」


それこそ今更だなと思いながら溜息を吐いて、独り言を呟きつつトイレを出る。と、そこには、仕事に行ったはずの鉄朗が口元を緩ませて嬉しそうに立っていた。


「へぇ、そうなんだ?」
「なんでいるの!?」
「可愛いこと言うねぇ」


そうだ、忘れていた。こいつはこういう騙し討ちみたいなことを平気でする男だった。羞恥心が一気に込み上げてきて、全身が沸騰しそうなほど熱くなる。ああもう!ニヤニヤしながらこっち見てくんな!


「名前からの好き、いただきましたー」
「うるさい!仕事行って!」
「はいはい。今日は早めに帰ってきますね」
「しっかりたっぷり遅くまで働いてきてください」
「でもほら、ラブラブしなきゃいけないんで」


ほんとに腹が立つ夫だ。でも1番腹が立つのは、そんな夫のことが好きで堪らない自分だったりして。とりあえず今はこれだけで我慢してくれます?なんて言いながら、いつぶりになるかも分からない「いってきますのチュー」をしてきた鉄朗に、私は怒るどころかときめいちゃったのだから重症だ。どうやら頭がイカれているのは、私の方だったのかもしれない。