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上司松川×後輩彼女


※社会人設定、やや不健全


気付いた時にはもう遅かった。落ちていた。彼の手の中に。
入社して右も左も分からなかった私に、1から優しく丁寧に仕事の内容を教えてくれた先輩。ただの憧れだった。先輩みたいに、私もいつか仕事ができるようになりたいなって、ただそれだけを思っていたはずなのに。
気付いたら、憧れだけでは済まされなくなっていた。最初の頃は意識していなかった距離にいちいちドキドキするようになって、声をかけられるだけでテンションが跳ね上がる。名字を呼ばれるだけで嬉しくなるなんて、どう考えたって憧れじゃない。


「はい、お疲れ」
「あ…ありがとうございます」
「まだ終わんないの?」
「あともう少しです」


少し残業しているだけなのに、差し入れにカフェオレを置いてくれる。コーヒーは苦くて苦手だって、いつか雑談したことを覚えていてくれる先輩が、私はやっぱり好きだ。そして夢みたいなことに、先輩も私のことが好きだと言ってくれた。
私が、あともう少し、って言ったら、ふーん、とだけ相槌を打って待っていてくれるのは、一緒に帰るため。優しい。こんな人と相思相愛なんて幸せに満ち溢れているじゃないか。本来なら浮かれまくってもいいところだけれど、私には手放しで喜べない理由がある。


「終わりました!」
「ん、じゃあ帰る?」
「はい、」


仕事を終えて漸くお待ちかねの時間が訪れたというのに、その時を見計らっていたかのように鳴り響く着信音。嫌な予感は的中。着信の相手は、私の彼氏だった。
彼氏のことは好きか嫌いかで言ったら、たぶん好き。学生時代からズルズル続いている恋人関係は社会人になってからも健在で、たまにこうして連絡がくる。とりあえず電話に出て、お互い仕事が終わったことを報告し合って、少し他愛ない話をして、おわり。今から一緒に夜ご飯でも食べに行こうか、なんてお誘いはない。よく言えば安定。悪く言えば冷めている。そんな関係。
先輩である松川さんには、彼氏がいるということは伝えてある。だから、たとえどれだけ好きという気持ちが松川さんに傾いていようとも、1度は告白をお断りした。けれども松川さんは言ったのだ。そんな気はしてたから別に良いよ、と。
別に良いよ。それは、私に彼氏がいても気にしないから、という意味らしかった。つまり堂々と、二股でも良いよ、と言ってくれたわけで。本来ならきちんとお断りしなければならないところを、私は甘い蜜に誘われて、イケナイ領域に足を踏み入れてしまった。


「彼氏?」
「…ごめん、なさい」
「彼氏いるって知ってて勝手に言い寄ってるのは俺なんだから謝る必要ないでしょ」


行こっか、と。なんでもないことのように私の手を引く松川さんの温度が、私の罪悪感を溶かしていく。初めて手を繋いだ時も思った。この人の体温は安心する、と。
彼氏と別れて、松川さんだけを選べば良い。そう思って何度も彼氏に別れ話を切り出そうとした。けれども結果的に別れることができていないのは、今の彼氏に対する情みたいなものもあるのだろうか。付き合いが長くなりすぎたせいで、この関係を断ち切ってしまったらどうなるのだろうかという不安が付き纏って、別れようと言い出せないままでいる。
松川さんは、そんな私を責めない。それどころか、社内の同期には私に彼氏がいると知っている子も多いので、松川さんとの関係は公にはできないことも分かっていて、上手に隠してくれている。
もっと早く出会えていたら、こんなに後ろめたい気持ちを抱くことなく、堂々と松川さんの彼女だと公言できていたのかもしれない。何にせよ、今の私は最低だ。それは自分が1番よく理解している。それでも。


「私、松川さんのことが好きです…」
「…知ってるよ、ちゃんと」


ゆるりと笑って私の頭を撫ぜる松川さんの優しさに、私はどこまでも甘えてしまう。つくづく、卑怯な女だ。でも、そろそろそれも終わりにしよう。私は密かに決意していた。


◇ ◇ ◇



彼女に彼氏がいるということは、なんとなく気付いていた。自惚れなんかではなく、俺に好意を寄せているということも。
彼氏がいるくせに他の男にこんなあからさまな好意をアピールしてくるものか?と、最初は不審に思った。その仕事ぶりから遊んでる風には見えないけれど、人は見た目によらないと言うし、年上の俺を随分と甘く見てるのかな、とも考えたりして。
けれども、彼女のことを知れば知るほど、少しずつ惹かれていっている自分がいることに気付いた。何がそんなに魅力的だと思えたのか、それは分からない。ただ、俺にしては珍しく、わりと本気でのめり込んでいた。


「私、彼氏がいるんです…」
「…うん。そんな気はしてたから別に良いよ」
「え、」


だから、うっかり好きだなんて伝えてしまった挙句、彼氏がいても別に良いよ、なんて余裕ぶったことを言ってしまったのだ。誰がどう見たって良くないことは分かりきっているのに。
しかし、俺も馬鹿だとは思うけれど、彼女の方も大概おかしくて、俺達は中途半端に恋人ごっこをしている。彼氏とは別れない。けど、俺のことも好き。なんて狡い女だろう。その狡い女に付き合っていて、それでも良いからと縋り付いているのは、紛れもなく俺なのだけれど。


「家まで送る」
「…ありがとうございます」
「どういたしまして」


誰がどこで見ているかも分からないから、俺達の距離感はいつも近からず遠からず。あくまでも会社の同僚というスタンスは崩さない。それが暗黙のルールだった。
彼女の家には、何度送って行ったか分からない。場所はもうとっくに覚えてしまった。彼氏は電車で30分ぐらいかかるところに住んでいて車も持っていないので、ばったり出くわすなんてことはないらしい。まあ、もし出くわしたとしても、会社の同僚です、と涼しい顔をできるぐらいの演技力は持ち合わせていると思う。


「じゃあ、また」
「松川さん!あの…コーヒー…飲んで行かれませんか…?」
「…それは、どういう意味?」


いつも通りに彼女の住むマンションの前まで送って行って帰ろうとしたところで、いつもとは違うお誘いを受ける。仮にもお互い好意を寄せていることが分かっている大人の男女が、2人きりの空間でコーヒーを飲んで帰るだけ、なんて有り得ると思っているのか。それとも、それだけで終わらないことを期待しているのか。女ってのはしたたかだから分からなかった。
俺達に身体の関係はまだない。そこまでいってしまったら、いよいよ後戻りできないということがなんとなく分かっているから。


「私、彼氏と、別れます」
「…それ、前もきいた気がするけど」
「今度こそ本当に。だから…背中、押してください」


順番違うでしょ、なんて今更か。俺のスーツをぎゅっと掴んで潤んだ瞳を向けてきているのは演技か、それとも。ああ、女って狡いなあ。


「コーヒー、いただこうかな」
「はい…ぜひ」


彼女の家に足を踏み入れた。約束通りコーヒーもいただいた。そして、そして。俺達は正式に男女の関係になった。後悔は、ない。なんだかんだで彼女に流されたフリをして男としての欲望に忠実に従っただけの俺は、彼女よりも狡いのかもしれないと後になって思ったけれど、気付かないフリをした。
これで彼女の背中を押せたのか。俺にはまだ分からない。けれども、俺の腕の中で幸せそうに眠る姿を見たらどうでもよくなってしまった。だって、彼氏がいようと、彼女が好きなのは俺なのだ。誰に認められなくたって構わない。そんな強がりを胸に秘めて、俺は狭いベッドで彼女を抱き締めて微睡んだ。