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行方不明の心臓


「瀬見君、数学の宿題やった?」
「え?やった、けど」
「ほんと?じゃあ答え合わせしよ」
「な、なんで」


挙動不審だという自覚はある。なんでもない会話でどもったりして、わけ分かんねぇって。けれども俺は数週間前から、名字に話しかけられるとなぜか動揺してしまうのだ。
数週間前以前は、こんな風にオドオドすることなどなかった。他のクラスメイトと同じように普通に会話することができていたし、自分の心臓の音がうるさいと思うこともなかった。それがどうしてこんなことになってしまったのだろう。
数週間前に何があったかというと、ただ席替えで隣の席になっただけ。隣の席になって、それまでより頻繁に話すようになって、よく笑うやつだなって思うようになって、ただそれだけだ。


「私、今日当てられるもん」
「俺の答えが合ってるとは限らねぇだろ」
「そうだけど…誰かと答えが一緒だと安心するでしょ?」


こてんと首を傾げて、ダメ?と強請る名字に、ただでさえうるさかった心音が更に喧しくなる。バレーの練習をどれだけやった後でも、こんな感覚に陥ったことはない。俺は何かの病気に罹患してしまったのだろうか。
そんなくだらないことを考えている間にも名字は俺の返事を待っているようで、隣からくるりとした瞳に見つめられているのを感じる。あー、くそ、そんなに見るなって!俺は乱雑に数学のノートを引っ張り出すと名字に押し付けた。勿論、顔は見れない。


「ありがと!」
「…間違ってても知らねぇからな」
「うん。いいの」


何が良いんだ、と思ったけれど、それが音になることはなく。嬉しそうに俺のノートを受け取ってパラパラと捲る名字の様子を、俺はちらちらと窺うことしかできなかった。


◇ ◇ ◇



その後、俺の数学のノートは数分で返ってきて、今はその数学の授業中。名字は予定通り当てられて、見事に正答していた。俺も同じ答えだったので、とりあえず面目は潰れずに済んだと密かに安堵する。
席に戻ってきてから、ありがとね、と小声でお礼を言われただけでどきりとしてしまって何も返せなかったのは格好がつかないけれど、きっと名字は俺の素っ気ない反応に慣れてしまっているだろうから、気にも留めないだろう。そうして、数学の授業は無事に終わるはずだった。


「じゃあこの問題を…瀬見」
「え、あ、はい」


予想外に俺が応用問題を当てられるまでは。正直なところ、数学は苦手科目だ。だから基礎問題でもギリギリ分かるかどうかのレベルなのに、ここで応用問題を当ててくるなんてこの教師は俺に恨みでもあるのだろうか。
一応解いてはきたものの、全くと言って良いほど自信のない自分の解答を見つめる。と、俺の書いた解答の下の空いたスペースに見慣れない文字の羅列が目に入った。今まで気付かなかったけれど、よくよく見てみればそれはこの問題の正解っぽいもの。綺麗に整ったその文字は、もしかしなくても名字のものだろう。
ちらり。窺った隣の席の名字は、ただ俺に微笑むだけだった。いや、まあその表情も俺にとっては心臓に悪いのだけれど。おかげで俺は何食わぬ顔で正答することができ、今度こそ無事に授業を終えることができた。


「名字、」
「なぁに?」
「数学の、あの問題…」
「役に立った?」
「…助かった」
「それなら良かった!」


嬉しそうに笑う名字に、またどくどくと心臓がうるさく鳴り始めた。数週間前からずっとこの調子。俺だって、さすがに薄々気付いてはいる。ただ初めての感情に追いつかないだけで、自分が名字のことをどう思っているのか。
幼い頃の淡くて朧げなものとは違う。これは、列記とした恋だと。俺は彼女のことが好きなのだと。けれどそれを自分の中で認めてしまったら、俺は今以上に名字とまともに話せなくなってしまう。だから、気付かないフリをし続けていた。我ながら、なんとも情けない。


「ねぇ瀬見君」
「なんだよ」
「私ね、数学は得意な方なんだ。瀬見君、数学苦手でしょう?」
「そうだけど…それを知ってて、なんで俺と答え合わせなんか…」
「どうしてだと思う?」


名字はまた、ふふっと楽しそうに笑った。いちいち心臓に悪い。どうしてだと思う?なんて尋ねられても、そんなのただの気紛れか、隣の席だったからという理由ぐらいしか思い浮かばない。だからそのまま答えれば、ハズレ、と言われてしまった。


「瀬見君、バレー部でしょ?」
「レギュラーじゃねぇよ」
「でも、試合には出てた」
「…観にきたこと、あったのか」
「うん。友達に誘われて」
「それで…?」
「その試合で、瀬見君のこと知ったの」
「へぇ…」


名字とこうして話すのは初めてのことだったので、試合を観に来ていたなんてことは知らなかった。レギュラーでもない、時々サーブのためだけにコートに現れる俺は、名字の目にどう映っただろうか。知りたいけれど、知りたくない。
なんとなく時計を見ると、短い休憩時間はもう間もなく終わりを迎えようとしていて、ちらほらと次の授業の準備をしているクラスメイトの姿が目に入った。つまり、名字とこうして話せる時間も残り僅かだということ。


「カッコいいなって思った」
「は?」
「だからずっと、どんな子なのかなって気になってた」
「ちょ、名字、」
「これで少しは私のこと意識してくれると嬉しいんだけど」


照れ臭そうにほんのり頬をピンク色に染めながらそう言った名字の発言に何かしら返事をしようとしたところで、休憩終了のチャイムが鳴り響いた。次の授業の担当教師はすぐに教室に入ってきて、俺の動揺などつゆ知らず淡々と授業が始まる。俺の心臓は壊れるんじゃないかってほどバクバクしていて、授業どころじゃない。
少しは意識してくれると嬉しい?ふざけんなよ。この数週間、ずっと俺がどんな気持ちで過ごしてきたと思ってんだ。もう意識しまくりなんだぞ。
言いたいことは山ほどある。けれどもきっと、俺は名字に全てを伝えることなんてできないのだろう。この授業が終わったら、休憩時間になったら、何と言おうか。どれだけ考えたって、単純思考な俺の頭で導き出される答えはひとつだけだ。
長い長い授業の終わりを告げるチャイムの音。待ち遠しかったけれど、この時が永遠に来なければ良いとも思った。どくり、どくり。鎮まらない鼓動。試合中にだってこんなに緊張したことはない。微かに震える声で、なあ、と名字を呼んで。こちらを向いてくれた彼女に、俺は言うのだ。


「また試合観に来いよ。それで、俺のこと、意識してくれたら嬉しい」
「…うん。絶対、観に行く」


今、俺の顔は赤く染まっているかもしれない。カッコよさなんてカケラもないと思う。それでもこの鼓動を心地よく感じるほどには、名字の笑顔に救われた。いや、もはや俺の心臓は溶けてなくなってしまったのかもしれない。