×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

絵本の中のパリジェンヌ


 今日は間違いなく、私が今まで生きてきた中で最悪の一日だったと思う。三年間付き合っている彼氏から食事に誘われて、最近忙しくて会えてなかったし誘われるのも久し振りかも、と浮かれていた。しかもいつもなら行かない高級なお店を予約したと言われたものだから、もしかしたら、と期待してしまったのが不幸の始まり。
 だって、社会人になってから三年も付き合っている彼氏から久し振りに連絡が来て、高級レストランで食事をするという流れだ。私じゃなくたって、もしかしたらプロポーズされるのかも、と期待してしまうのではないだろうか。
 それが、蓋を開けてみればどうだ。化粧を少し上品に仕上げ、服装もそれなりにオシャレに気を遣った。普段は履かないようなハイヒールに足を滑り込ませて、気分はすっかりお姫様。それなのに、美味しい食事をお腹いっぱい食べた後でようやく本題を切り出した彼の口から飛び出したセリフは「色々考えたんだけど俺たち別れた方が良いと思う」という、私の期待とは真逆の内容だった。最後の思い出に、と高級レストランを予約したらしいのだけれど、なんとも酷いことをしてくれる。
 本当に馬鹿みたいだ。これでもちゃんと彼のことが好きだったのに。なかなか会えなくても、私は彼のことを思い浮かべては、次はいつ会えるかなあって考えたりしていたのに。彼の方はその間に私との別れを決意していたなんて、笑い話にもならない。
 彼は私を傷つけまいと思ってか、「嫌いになったわけじゃないんだ」「このまま付き合っていてもお互い幸せになれないと思う」「お前には俺よりもっといい男がいるよ」などと言っていたけれど、とんだ偽善者だとしか思えなかった。お陰で一気に彼への好意は吹っ飛んだけれど、三年間の思い出があるのだからノーダメージというわけにはいかない。というか、かなりの大ダメージだ。
 しかも不幸はそれだけにとどまらなかった。悲しみに打ちひしがれて生気を失いながらもどうにかこうにかフラフラ歩いていた私は、履き慣れない靴のヒール部分を道の側溝に引っ掛けて転んでしまったのだ。道行く人の視線も擦り剥けた膝も、ついでにズタボロになった心臓も、めちゃくちゃ痛い。もうこのまま消えてなくなりたい。
 これ以上ない不幸が襲いかかる中、極め付けの不幸は靴のヒールが折れてしまったこと。神様は私に裸足で帰れとでも言うのだろうか。こんな仕打ちあんまりだ。私が一体何をしたというのだろう。
 消えたい。いっそのこと死にたいとすら思いながらヨロヨロと立ち上がった私は、道端の花壇にひょこひょこと移動して腰を下ろす。ストッキングは当たり前のように破れて伝線しているし、膝からは血が滲んでいる。こんなみすぼらしい姿では電車に乗れない。というかそれ以前に、靴が壊れてしまったのだからこの場から動くことも困難だ。
 絶望感で押し潰されそうになりながらも、私はスマホを取り出した。タクシーを呼ぼう。それしかない。そう思って登録しているはずのタクシー会社の連絡先を探している時だった。

「良かったらどうぞ」
「え?」

 お先真っ暗な私の目の前にすっと差し出されたのは、男性もののハンカチだった。え? なにこれ? ハンカチ? 私に? なんで? 誰?
 頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、私はスマホに落としていた視線を上げて声の主を確認する。そしてそこに立っていた人物を見て固まった。夜の暗がりの中、街灯に照らし出されたのは随分と背が高い男性で、見上げる私の首が痛くなってしまいそうなほど。スーツをきっちり着こなし落ち着いた大人の雰囲気を漂わせた、見るからに紳士的な男性だ。
 知り合いではない。初対面であることは間違いない。ではなぜ、見ず知らずの男性が私にハンカチを差し出してくれているのだろうか。状況が飲み込めないながらも何か言わなければと「あの、えーと、」を繰り返すものの、言葉が続かない。
 私のポンコツ。だからフラれるんだ、と。思い出さなくてもいいことを思い出してしまったせいで余計に頭が働かなくなり、私は遂に黙り込んでしまった。こんな失礼な反応をしてしいるのだから、さすがに紳士的な男性も気分を害して去ってしまうだろう。……と思ったのに、どういうわけか男性は、わざわざ片膝をついて私の顔を覗き込むようにして顔色を窺ってきた。

「気分悪いんですか? 病院行きます?」
「あ、いえ、大丈夫、です……」
「膝の怪我、痛そうだから、とりあえず血だけでも拭いた方が良いんじゃないかと思って。これどうぞ」
「……ありがとうございます」
「靴、ダメになっちゃったんですか」
「あー……はは、そうなんですよ……みっともないですよねぇ……」

 穏やかな声音に誘われるようにハンカチを受け取ったものの、高級そうなそれに血をつける勇気は出なくて固まったまま、男性の問いかけに自虐的な返しをする。すると彼は何を思ったのか「もう少しここで待っててもらえますか」と言ってきた。
 待つも何も、靴がこの状態である以上、私は今そう簡単に動けない。そういう意味で頷いてみれば、男性は「じゃあ少しだけ待っててください」と言い残し、足早に去って行った。一体どういう意味なのだろうか、と考えているうちに、言葉通り少しの時間で私のところに帰ってきた男性の手には大きな紙袋。そしてそこから取り出したのは女性ものの真っ赤なハイヒールだった。
 女優さんが履いたら誰もが振り向くような、そんな素敵な靴。それを彼は、やっぱり片膝をついて私の足元に置いてくれた。まるで絵本の中に出てくる王子様がお姫様にガラスの靴を履かせる時のように。

「これ履いてみてください」
「え、あの、えっと……え?」

 男性が現れてからというもの、私は自分の身に何が起こっているのか何も理解できていなかった。理解できるはずもない。ハンカチを差し出してくれただけでも驚きだったのに、なぜ私にこんなに美しいハイヒールを与えようとしてくれているのか。そもそもこの短時間でどこからどうやって調達してきたのか。わからないことだらけだ。
 けれども戸惑う私の汚い足に、男性は何の躊躇いもなくするりと靴を履かせてくれた。サイズなんてもちろん伝えていないのにピッタリだなんてどういうことだろう。この男性は現代に紛れ込んだ魔法使いか何かだとしか思えなかった。

「いい靴は素敵な場所に連れて行ってくれるって話、聞いたことありません?」
「はあ……」
「そんな顔してないで、この靴に素敵な場所まで連れて行ってもらって?」

 跪いた男性は視線だけをこちらに向けてゆるりと笑う。「ストッキングも中にあるから使ってください」などと言われても、男性に見惚れている私は反応できない。
 男性の素性はわからないままだし、何がどうなってこんなことになっているのか。何度考えてもわからないことだらけなのに、この靴を履いた瞬間から、私は薔薇色の人生を送れるような気がしているのだから不思議だ。そして三年間付き合っていた元カレの存在は私の頭の中から消え失せ、いつの間にか目の前の男性の存在に上書きされていた。

「ストッキング、履き替えに行きますか?」
「あ……はい……そういえば、お金……」
「それは今日じゃなくても良いですよ」
「え?」
「松川一静」
「まつかわ、さん、」
「俺の名前です。連絡先、紙袋の中に入れておいたので。良かったら連絡ください」

 突然現れて突然靴をプレゼントしてくれるなんて、よく考えたら怪しい。おかしすぎる。もしかしたら不審者かも。……と本気で警戒できないのは、私の頭がおかしいからか、彼の纏う空気の問題か。
 荒手のナンパかもしれないし、良い人を装い靴をプレゼントして後で高額な請求をしてくる悪徳商法に引っかかったのかもしれない。今日は最悪の日だから、その可能性も十分にあり得る。というか、その可能性の方が高い。それでも私は、この男性を、松川さんを、どうしても悪い人だと認識することができなかった。

「胡散臭い男だなって思いますよね」
「……正直、ちょっとだけ思ってます、けど」
「けど?」
「なぜか疑いきれなくて困ってます」
「…………それ本人に言うんですか」
「すみません! 靴もハンカチも、あとストッキングも、色々よくしてくださったのに失礼なことを……!」
「ふふっ……いや、そうじゃなくて、素直で可愛いなあって」
「かっ……かわ?」
「可愛いなって思ったから声かけたんですよ。怪しい不審者でしょ」

 紳士は突如、胡散臭さ満点の怪しい男に変身した。だって絶対におかしいもの。この暗がりで顔なんか見えなかったはずなのに「可愛いなって思ったから声かけた」なんて。しかし、自分のことを怪しい不審者と言う松川さんが初めて素で笑ってくれたような気がして、その表情を見たらやっぱり警戒心が緩んでしまった。
 この出会いには何か理由があるのだろうか。考えたってわからない。全てを知っているのは神様だけだ。その神様だって本当にいるのかどうかはわからないけれど、もしいるのだとすれば、もしかしたら不幸なことを積み重ねすぎてしまったお詫びに松川さんと出会わせてくれたのではないかと、都合のいい解釈をしてみる。

「名字名前、です」
「俺に名前なんか教えちゃっていいんですか」
「先に教えてもらったので、私も教えた方がいいかなって」
「……もうちょっと警戒心もたないと変な男に寄り付かれますよ」
「松川さんは変な男じゃないと思ったから教えたんです。私だってそんなに馬鹿じゃありません」
「へぇ……それじゃあ期待していいのかな」
「期待?」
「そう。今後に」

 今後ってどういう意味ですか、と尋ねたりはしなかった。だって私の方が期待している。胸がトクトク跳ねているのがその証拠だ。
 考え方が甘いのは重々承知。また不幸の沼に突き落とされるかもしれない。それを覚悟の上で私は、「とりあえずストッキングと靴履き替えに行きましょうか」と差し伸べてきた松川さんの手を取った。