×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

どうせ危険だったりして


※成人済み設定



「おはようございます」
「お、はよう、ございます、」


ぎこちない挨拶をボソボソと返して申し訳程度にぺこりとお辞儀をした私は、声をかけてきた相手とまともに目を合わせることなく足早に階段を駆け降りた。まるで逃げるかのように。
だって怖いんだもん。同じ階のどこかの部屋に住んでいる背の高い男の人。出勤時間がかぶるようで毎朝出くわすのだけれど、彼はいつも胡散臭さ満点のスーツを着ていて、あまりよろしくないお仕事をしているのではないかと勝手に思っている。だからそんな人に目をつけられたりしたら自分の身に危険が及ぶんじゃないかと、毎日怯えているのだ。
強面というわけではないけれど、優男って感じでもない。ただなんとなく、人を騙すのが上手そうだなという雰囲気はある。善良なお年寄りに平気な顔をして嘘を吐いてお金を巻き上げちゃう、とか、訪問販売で人の良さそうな笑顔を傾けて高額な壺を売りつけちゃう、みたいな、つまり詐欺師のような胡散臭さがあるのだ。めちゃくちゃ偏見だけれども。
そんなわけで、時々出会う彼はあまり関わりたくない人だった。今日までは。

日曜日の昼前。近所のスーパーからの帰り道にある公園で彼を見かけた。相変わらずのスーツ姿。けれども今日は暑苦しい上着を脱いで、シャツを腕まくりしている。
こんなところで何をしているのだろうかと物陰からこっそり見てみると、彼の傍には小学校の中学年ぐらいだろうか。十歳前後と見られる男の子が立っていた。
まさか白昼堂々誘拐するつもりなのだろうか。もしそうなら警察を呼ばなければならない。私はポケットに入れていたスマホを取り出し、いつでも通報できるようにスタンバイした。
しかし私は気付く。彼がやけに柔和な笑顔を見せていることに。挨拶を交わす時いつもまともに目を合わせていないから比べることはできないけれど、どうにも悪いことをしようとしている人の表情には見えない。
そのまま様子を窺っていると、今度は彼ではなく男の子の方が動いた。よく見ればその手にはボールを持っている。もしかして、と考えている間に、男の子は少し離れたところから彼に向かってポーンとボールを山なりに投げた。すると彼は、長い腕をすうっと正面に構えて美しくボールを受け止めたではないか。
スポーツにはそんなに詳しくない私でも知っている。今の動きは、バレーボールのレシーブってやつだ。昔体育の授業でやったことがあるけれど、腕が痛くなったりボールが変なところにとんでいったりした記憶しかない。しかし彼は、見事にふわりとボールを浮かせて、びっくりするほど正確に男の子のところまで飛ばして見せたのである。


「おじさんほんとに上手いじゃん!」
「だからできるって言ったろ? あとおじさんじゃなくてお兄さんな」
「スパイクも取れる?」
「取れますけど」


男の子はバレーボールを習っているのだろうか。慣れた手つきで彼めがけてスパイクを打つ。子どもが打ったとはいえ私だったら間違いなく避けているであろうスピードと威力をもったスパイクだ。しかし彼は、それをいとも簡単にふわりと上げて見せたではないか。
先ほどよりも興奮した様子で「すっげー!」と言う男の子に得意げな顔をしている彼は、私の中で作り上げていた今までの彼のイメージと正反対。爽やかで生き生きしていて、まるで穢れを知らぬ少年のよう。


「少年、バレー好きか?」
「うん!」
「そっか。そりゃよかった」


男の子の返事を聞いて、それはそれは嬉しそうに顔を綻ばせた彼に胸がどきりとした。あの人、そんなに悪い人じゃないのかも。人を騙してどうこうするようなお仕事の人でもないのかも。勝手な憶測を勝手な推測で塗り替える、勝手な私。
そうして、そこで買い物袋とスマホを手にぼーっと彼らを見つめ続けていたものだから、ふとこちらを向いた彼と目が合ってしまった。どうしよう。咄嗟に目を逸らし慌ててその場を離れたから、不審者だと思われたかもしれない。目が合ったのは気のせいで、私の存在に気付いていなければいいのに。
……という願いは、瞬く間に打ち砕かれた。背後から「あの!」と声をかけられたからだ。たぶん、というかこの状況ではほぼ間違いなく、声をかけてきたのは彼だろう。聞こえなかったフリをして逃げたい気持ちはあるけれど、逃げたら自分が不審者だと認めてしまうことになるような気がしてやめた。
観念して立ち止まり、壊れたブリキのおもちゃのようにギギギ、と音がしそうな不自然な動きで身体を彼の方に向ける。彼の印象は改善されたけれど、この状況で顔を上げる勇気はない。


「さっき公園でこっち見てませんでした?」
「……通りすがりに、何してるのかなって気になって、少しだけ……すみませんでした」
「いや全然! 謝られるようなことされてないんでそれはいいんですけど。えっと、その、俺と同じマンションに住んでる方ですよね?」

怒られなかったし不審者扱いされなかったのは良かった。しかし、まさか彼が私のことをそこまで覚えていたなんて予想外の展開である。ここまではっきりと覚えられている以上、シラを切り通すのは難しいだろう。私は小さく頷く。


「毎朝会うのに目合わせてくれないんで、実はちょっとヘコんでたんですよ」
「え?」
「俺ってそんなにコワイ人に見えます?」
「そ、そんなことは……」
「言いにくいですよねぇ。すみません、変なこときいちゃって」
「いえ……」
「毎朝会うたびにこっち見てくれないかなって思ってたんで、今日顔見れて嬉しかったです」


彼の言っていることの半分以上が理解できなくて、特に最後のセリフなんて理解できる部分がひとつもなくて、私はほぼ反射的に顔を上げていた。どういう意味なのか、彼の目を見て確認したくて。
遠くからでもなく、一瞬だけでもなく、初めて至近距離でまじまじと彼の顔を見る。私の動作に驚いている様子を見ると、いつもの彼より幼く感じられた。私も彼の顔が見れて良かったって、漠然と思う。だからだろうか。彼のことをもっと知りたくなってしまったのは。


「バレー、お好きなんですか?」
「バレーが好きだから今の仕事に就いたってぐらい好きです」
「バレー関係のお仕事なんですか?」
「ええ、まあ。布教活動とか色々」
「へぇ……」
「そんなに興味あります?」
「はい」
「それは仕事について? 俺について?」
「え。あっ、ごめんなさい! 私、急に色々、えっと、そう、仕事! 時間大丈夫ですか!」
「大丈夫なんですけど、ここだと暑いんで場所変えて昼飯付き合ってくれません?」


自分で自分が何を口走ったのかよくわからなかった。我に帰って必死にこの場を収束させようとしたのに彼からは思わぬお誘いをされてしまうし、何がどうなっているのかさっぱりわからない。
けれども気付けば私はこくりと頷いていて、彼が顔を綻ばせていた。その表情にキュンとしてしまったなんて、昨日までの私が知ったらひっくり返って驚くことだろう。
持ち直した買い物袋がガサリと音を立てる。腐りそうなものを買っていなくて良かった。買い物に行くだけのラフな格好だからお洒落なお店は無理だけれど、ファミレスとか定食屋さんとかファストフード店とか、そういうところならたぶん大丈夫だと思う。


「近くに安くて美味い店あるんで、そこでも良いですか」
「この格好で行けるところならどこでも」
「買ったもの一旦起きに帰ります?」
「いえ、お構いなく」
「ていうか俺と2人で飯食うの嫌じゃないですか」
「嫌だったら逃げてます、けど、」
「いつもの朝みたいに?」
「……すみません」
「冗談です」


ケラケラ笑う彼は、私が作り上げていた「胡散臭い」「よろしくないお仕事の人っぽい」「平気で人のこと騙せそう」という最低なイメージをぶち壊した。子どもとバレーを楽しむ姿も、今みたいに軽口を叩いて揶揄ってくるところも、なんかこう、すごく、魅力的だ。
明日の朝からはちゃんと目を見て挨拶しよう。そういえば名前聞いてなかったな。何号室に住んでるんだろう。何歳ぐらいだろう。きいちゃってもいいかな。答えてくれるかな。


「あの」
「あの」


声がかぶった。お互い顔を見合わせて、一瞬の間の後、噴き出す。その後落ち着いてから「お名前きいてもいいですか」って言ってきた彼に快く自分の名前を伝えて、今度は私が教えてもらって。「名字さんね」と彼の口から紡がれた自分の名前が擽ったかった。
私は心の中で彼の名前を唱える。黒尾鉄朗さん。全然こわくないし胡散臭くもない、素敵な人。新たな情報で今までのイメージを上書きする。ここから先の情報は、これからゆっくり教えてもらうことにしよう。
ずっと握り締めているスマホに彼の名前が登録されるまで、あと30分。