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ABCからZまで


※社会人設定


「初めて」というのは、どんなことでも緊張する。初めてのおつかい、初めての発表会、初めての仕事、初めて会う人への挨拶……挙げ出したらキリがないけれど、兎に角、「初めて」のことが緊張するというのは間違いない。私は割と神経が図太い方だと思うし、多少のことは「どうにかなるでしょ」と割り切って生きてきたけれど、今回ばかりはそうもいかなかった。
今日は私が「名字」から「西谷」になった日だ。結婚式を挙げる日に入籍しようと言い出したのは彼の方。「嬉しいことは二倍にしたいじゃん!」と薄っぺらい紙を嬉しそうに掲げながら提案してきたのは、何ヶ月も前のことである。
彼にぴったりの賑やかな結婚披露宴を終えて二次会に繰り出し、今はタクシーで新居に帰宅中。一日中初めて尽くしで緊張しっぱなしだったからさすがに疲れたけれど、隣の彼は疲れなど微塵も感じさせない元気さで「腹減ったな〜」と夜食のメニューを考えていた。
本日の主役である私達は友人達と話をすることに時間を割いていたから、確かにあまり食べ物を口にしていない。お酒はぼちぼち飲まされたけれど、食べる暇はほとんどなかったのだ。彼の空腹発言を聞いた私は、途端に自分も空腹感に襲われた。


「帰って着替えたらコンビニ行こうか」
「家何もないっけ?」
「カップラーメンぐらいならあるけど……」
「じゃ、それでいーや」


本当なら途中でコンビニに寄ってもらったら何度も家を出入りしなくて良いから楽なのだけれど、二次会用に借りたドレスとスーツで最寄りのコンビニに行くのは些か恥ずかしい。新居の冷蔵庫の中がほぼ空の状態なのは、明日から新婚旅行に繰り出すからだ。よって、家には日持ちしそうな食料品しかないのだけれど、それでぶうぶうと文句を言う人ではないから助かる。
タクシーで走ること十分少々。家に辿り着いた私は荷物をどさりとリビングに投げ捨てて寝室に向かった。着替えは寝室のクローゼットの中にあるから、さっさと楽な服に着替えたかったのだ。しかし、着替えをしようと服を脱ぎかけたところで、背後から気配を感じて手を止めた。振り返れば彼が大きな瞳で私をじっと見つめていて、その顔は何かもの言いたげである。


「何してんだよ」
「見ての通り、着替えようとしてる」
「なんで?」
「なんでって……窮屈だから?」


当たり前のことを当たり前のように答えると、彼はその顔をむっとした表情に変化させた。怒っているというより拗ねているようだ。自分は早々に蝶ネクタイを解いてシャツの第一ボタンを外しややゆったりとした状態になっているというのに、私には窮屈なままでいろと言うのだろうか。そんな理不尽なことを言う人ではないはずなのだけれど。
私がどうしたものかと困っていると、彼が近付いて来た。そして今度は大真面目な顔をして言う。


「それを脱がすのは俺の役目だろ」


時が止まったかのように、お互い微動だにせず固まった。「急に何を言い出すんだ」と言いたいところだけれど、彼はこのドレスを試着する時のことを覚えていたのだろう。「このドレス可愛いんだけど背中のチャックの上げ下ろしが難しい」と嘆いていた私に、彼は言ったのだ。「俺が手伝えばいーだけじゃん」と。
着る時は良かった。式場スタッフの人が手伝ってくれたから。そして今。脱ぐ時になって、そういえば自分では上手にファスナーを下ろせないということを思い出した私は、大人しく彼に背中を向けた。なんともマヌケな構図だけれど、こればっかりは自分の不器用さを呪うしかない。
ファスナーさえ下ろしてもらえれば、さっさと着替えて夜食の準備ができる。そんなことを考えながら着替えた後の行動を脳内でシミュレーションしていたのだけれど、待てど暮らせど彼がドレスのファスナーを下ろしてくれる気配がないことに気付いた私は首を捻った。
おかしいな。どうしたんだろう。疑問に想い顔だけ振り返って彼の様子を確認しようとした私は、背後から抱き着いてきた彼によってバランスを崩し、何歩か前に進んだところでベッドにぶつかったかと思うと、そのまま顔面からベッドにダイブした。痛くはないけれど、一体どうしてこんなことになったのか。状況がサッパリ飲み込めない。


「夕くん!」


ベッドからもぞもぞと身体を起こしながら今度こそ彼を見遣ろうとした私だったけれど、一瞬のうちに身体をくるりと反転させられてしまう。やっとの思いで見上げれば、視界に広がるのは天井と彼のにんまりとした笑顔。あれ。この顔は。……どこでスイッチ入ったの?


「夕、くん……?」
「今日って結婚初夜だよな?」
「え」
「ちょうどいいや」
「……夕くん、大人になったね」


それは決して悪い意味で言ったのではなく、心の声として漏れた感想である。
付き合いたての頃は、向き合って話をするだけでお互いドギマギしていた。相手の身体に触れるなんて以ての外で、ベタな話ではあるけれど少し手が触れ合っただけで顔を真っ赤に染め合ったこともある。
そんな彼が今や「脱がすならちょうどいい」と言って、照れる素振りもなく私を組み敷いているのだ。そりゃあ「大人になった」という感想を抱いても無理はない。
私のそんな呟きにも似た発言を聞いた彼は、あどけなさの残る純粋な瞳で私を射抜く。大人になったと思ったはずなのに、子どもみたいだとも思う。私はそのギャップに、これから先も振り回されるのだろう。


「俺は昔から何も変わってねぇよ」
「根本的なところはね」
「変わったとすれば昔より名前のこと好きになったことぐらいじゃねぇかな」


歯の浮くようなセリフを恥ずかしげもなく言ってのけるところは、確かに昔から変わっていない。私にド直球で好きだと告白してくれた時も、彼は照れることなく真っ直ぐに真剣な双眸を私に向けてくれていた。
この人は私を裏切らない。漠然と、そう確信させられた。私は彼のことが好きだけれど、いつかは別れる日がくるのだろう……なんて不安を抱くこともなかった。今も私をじっと見つめている大きな瞳は、それだけ安心感を与える魔力を持っていたのだ。
晴れの舞台のためにと綺麗に整えられた髪を撫でるように手を動かす。そして大人しく私に撫でられてくれていた彼の首に両手を回した私は、その顔を自分にぐいっと近付けた。
僅かに驚きの色を含んだ彼の唇と私のそれがぶつかって、すぐ離れる。「私を選んでくれてありがとう」と囁くように言えば、今までひとつも照れた素振りを見せなかった彼が顔を赤らめた。彼に伝えたら怒られると思うから口にはしないけれど、ちょっと可愛い。


「名前の方が大人になってんじゃん」
「そう?」
「今からナニするか分かっててそういうことしてきてんだもんな?」
「……そうだよ」


誘ってるとか煽ってるとか、そういうつもりは一切なかったけれど、彼がそう受け止めたならそれでも良いかなと思う。別に嫌じゃないし。投げやりになったわけではなく、私は夫である彼に全てを委ねただけだ。
 彼はまた驚きの表情を浮かべた後で口元を手で覆い照れた素振りを見せた。けれど、それはほんの数秒のこと。
何度か瞬きしている間にすっかりギラついた眼差しへと変化を遂げた彼は、私に覆い被さり抱き締めてくれたかと思うと、背中のファスナーに手をかけた。ジジーッとゆっくりおろされていくのが分かって、ごくりと唾を飲み込む。


「俺を選んでくれたこと後悔させねぇように一生護るから」
「今そういうこと言うの、ずるいよ……」
「じゃあ、また後で言う」


だめだよ夕くん。そんなセリフ、いつ言われたってずるすぎるもん。
そんな反論は吐息ごと飲み込まれてしまったから伝わらなかっただろうけれど、彼に惜しみない愛を注がれてしまえばどうせ幸せ以外のものを感じることなんてできやしないから。私は大人しく彼に愛されることだけに集中することにした。
今日から二人の「初めて」を紡いでいける喜びを噛み締めるように。