彼の名はポチ
(赤色の少女)
つまらない、と彼は度々零す。暇だ、と言いながら欠伸をする。大して働いてもいないくせに、疲れたとぼやく。それを隣で聞きながら、瀬崎満(せざきみちる)は溜息をついた。何故、自分がこの男の食事まで準備しなければならないのか理解が出来ない。ただでさえ、最近は事件が多くて大変だというのに。それも、その事件の原因は、彼の同族ともいうべき存在であることが多いのだ。満としては、是非詫びて貰いたいほどだった。
高山翔太(こうやましょうた)は、バイトが終わると当たり前のように満についてきた。明るい茶髪をした彼は隣を上機嫌に歩いている。ビニール袋をがさがさと振りつつ楽しそうにしている。何がそんなに楽しいのか知らないが、人懐っこい顔は緩んでいた。そもそも、一緒に帰路に着いていることがおかしい。彼にも帰る家はあるはずなのに。
夕日が眩しい。小さなマンションとやはり小さなアパートの間で、夕日がゆっくりと沈んでいく。少し肌寒かった。人気のない通りは一段と気温が低いような感じもする。
気が付けば、目の前に赤い服を着た少女がいた。中学生くらいだろうか。裾がふわりと広がっている赤いワンピースを着ている。襟元には、白黒のストライプ柄をしたリボンが結ばれている。つばの広い真っ白な帽子を被っている。帽子と逆光ではっきりとは顔がわからない。
本能的に、嫌悪感が背中に走った。ビニール袋の音が途絶えた。頭の中で警鐘が響く。
「こんな明るい時間から、堂々としてるのね」少女がふわりと笑った、気がした。
満はコートをめくり、腰に手を伸ばした。一気にホルスターから銃を引き抜く。構える。肩から提げたバッグが邪魔だった。下ろしている余裕はない。
「覚悟しなさい」あまりにも滑らかな動作で少女が手を挙げる。どこからともなく、死神が持っていそうな鎌が現れる。「私は、あなたたちを認めない」
軽やかな動きで少女が斬り掛かってくる。満はとっさに右へ飛んだ。身の丈よりも明らかに大きい鎌を少女は平然と扱う。満と高山の空間を、少女は薙ぎ払う。ひり、と頬が痛んだ。巻き起こる風で髪がなびく。
「見えた」
くるりと少女は鎌を下ろした。何もないはずの場所で、彼女は鎌を何かに引っかけるような素振りをする。何も見えない。満は銃を構えたが、撃っていいのかわからなかった。
「何してんだ!」
高山が少女に掴み掛かろうとする。少女の足下から炎が上がる。少女は高山をいとも簡単に振り払った。高山が背後の花壇に倒れ込む。鎌が振られると同時に炎も消える。
何が起きているのか、わからない。
「何してるって、あなたを助けてあげるのよ」幼くも優しげな声が聞こえた。
ひゅ、と風の音がした。少女が鎌を振り下ろし、そして振り上げる。息が出来なくなる。首を絞められたような感覚が一瞬だけした。バッグが肩から重く垂れ下がる。膝を折る。眼鏡がずれる。大きく呼吸をする。何とかゆるゆると空気が喉を通っていく。人の手に似た生々しい感覚が首にまとわりついて離れない。
視界の隅に、茶色のブーツが見えた。顔を上げる。少女が満を見下ろしていた。まだ幼いその顔には、侮蔑の表情が浮かんでいた。
「偽善者」
彼女の声は冷えきっていた。声が上手く出ない。満は咳き込むだけで何も言えなかった。レースで飾られたワンピースが揺れる。瞬きの間に、少女は消えた。
何が起こったのだろう。満はよろよろと立ち上がった。バッグが重い。「偽善者」という言葉が胸に重くのし掛かる。満は銃をホルスターに戻した。撃った方が良かったのだろうか。彼女の目的は一体何だったのだろう。満は眼鏡をそっと掛け直した。
「大丈夫か?」
高山は花壇に腰掛けていた。背後の植え込みはいびつな形になっている。ビニール袋は地面に放られていた。無言で満はその袋を拾う。中身は何とか大丈夫そうだった。
「何、今のは」吐息とともに言葉を吐き出す。高山を見る。あれ、と違和感を覚えた。
「やられた」高山は苦々しげに言う。
「何を」高山が何を言いたいのかさっぱりわからない。
「契約を切られたんだよ!」
そんなこともわからないのか、と言いたげな表情で高山は吐き捨てた。満としては、契約が何なのかもわからない。高山は苛立っているのか、だん、と地面を蹴った。ふわふわの茶髪は乱れていた。その頭を、彼はぐしゃりと掻く。
何も言わない満に対し、彼が面倒そうに口を開く。
「使い魔としての契約が切れたんだ」その声は、どこか悔しさを含んだものだった。
満は改めて高山を見た。異質なものを見ている感じがする。するにはするが、以前に彼をどのように認識していたのか定かではないために比較出来ない。とにかく、どうやったのかはわからないが、あの少女によって契約が切れたらしい。
「契約って解除出来るんだ」知らなかった。満はしみじみと呟く。
「出来ない」不機嫌そのものといった口調で高山が反論した。
「え、でも今」
「無理矢理に解除されてるだけ。しばらくしたら元に戻る」
満の言葉を遮り、高山はむすっとしている。何がそんなに気に入らないのかわからない。彼はがしがしと頭を掻いた。それから、がくりとうなだれた。落ち込んでいるようでもある。どことなく情緒不安定だ。大丈夫なのだろうか。
それにしても、契約は解除出来ないのか。嬉しかったのに。
「一時的って、そんな半端な」ふう、と息を吐いた。