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「役所はもう閉まってるから、間に合わないな」やはり彼は淡々と言葉を紡ぐ。
「ええ?」エフィは顔を上げてみた。再び彼と目が合う。
「よろしく」
彼は穏やかに笑う。外灯の明かりを受けて金髪が鈍く光る。細められた緑の目に意地の悪さは見出せなかったが、底知れない何かを秘めているような気がしてエフィは後ずさった。じりじりと彼から距離を取る。彼はただ微笑むだけだった。
つまり、明日から彼と夫婦になる、ということか。この、女装している彼と。何で女装しているのかもよくわからない、そもそもの職業さえ疑わしいこの男と? エフィはふるふると首を横に振った。本当にこの制度は有益なのか、と今すぐに政府に問い質したい気分だった。
冷たい風が首元をさらう。黒服がなびく。はためく。外灯がちかりと明滅する。右腕を掴まれる。彼の手からワンピースがゆっくりと滑り落ちる。エフィはその様を目で追う。ワンピースが地面に落ちていく。水の中を漂うかの如く、ゆっくりと。
そこで、意識は途切れた。
透明な光が部屋に射し込んでいた。目を開けると、自室のベッドに横たわっていた。一体、何をしていたのだろう。何もかもがぼんやりとしている感じだ。白く塗られた天井は相変わらず目に優しくない。エフィは何度か瞬きをした。
夢を見ていたような気がする。夢か現か判然としない出来事が頭の中に残っている。ワンピースを拾いに外へ出て、それから彼に会った。彼は珍妙な格好をしていて、それで、夢だとか何だとか結婚するだの何だの言って。エフィはのそのそ起き上がった。ふと自分の体を見下ろせば、昨日着ていたものと同じ、洗いざらしのブラウスを着ている。ブラウスはしわだらけになっていた。
手ぐしでおざなりに髪を整える。エフィはよろよろとベッドから下りた。机には、書きかけの原稿がそのままになっている。洗濯物を入れた後にも書くつもりだったのだが、書いていない。いつの間にか寝てしまっていた。夕飯を食べた記憶がない。締め切りには、まあ、間に合うだろう。
エフィは階下へ向かった。空腹だった。
居間兼台所には、昨日の朝と同じように彼がいた。白いソファーに腰掛けて新聞を読んでいる。彼と並ぶかの如く、背もたれに黒い布が掛けられている。筒状になっている布だ。エフィは後ろからそっと近付いてその布を持ち上げた。広げる。件のワンピースだった。エフィが繕った跡がある。
夢のようなあの出来事は夢ではなかったのだろうか。
「あの、職業は何なんですか」挨拶もそこそこに尋ねた。
「昼間は公務員」新聞から顔を上げることなく彼が答える。
「仕事、行かなくていいんですか」あくまで彼の背中に問いかける。
「まだ時間あるから」彼は機械的に返してくる。既に朝食を済ませたのか、ソファー越しに見えた低いテーブルにはカップが置かれていた。
「昨日のあれは夢ですか」
「どれ」無愛想に彼が言う。昨日とはだいぶ違う態度だ。少し、違和感を覚える。
「女装だの、結婚だの、っていう、あれ」
大げさな音を立てながら彼が新聞を畳む。すっと立ち上がる。そこに昨日の女装姿の面影はなかった。やはり夢だったのだろうか、そうだ、いくら何でも突拍子もないではないか。一人で納得しかけたエフィの手から、彼がワンピースをひったくる。
「この礼に、これでも上手く処理したつもりなんだけど」ひらりと彼はワンピースを掲げる。
処理、という言葉が頭に落ちてくる。エフィは夢のような出来事から知識をかき集める。つまり、上手く影の記憶を処理したということだろうか。夢ではなかったのか。そして、目の前にいる彼は、女装して箒を振り回す変な奴だということか。
「結婚、したんですか、私たち」恐る恐る訊いてみた。
「そうだな」と彼はあっさり答える。もう少し何か言うことがあるのではないか。
会話が途切れる。そのまま彼は仕事に行ってしまった。一人家に残されたエフィは、このまま彼と暮らし続けるかどうしようか考えたものの、答えは出そうになかった。少し面白い奴だなと思い始めていたことは否めなかったのだ。
まずは締め切りに間に合うように、仕事をしよう。それから今回の経験を生かした小説を書こうと決めて、エフィは朝食に取りかかった。
end.