3

 目の前にいたのは、同居人だった。今朝、居間で見た彼が確かに目の前に存在している。初めてこんなに間近で彼を見たような気がする。エフィは目をぱちくりさせた。夢だ、そうだ夢に違いない。そうでなければ事態に説明がつかない。手の中に金髪がある。

 予想を超えた事態に反応出来ずにいると、些か乱暴にかつらをひったくられた。ぶすりと不機嫌を露わにした表情で彼はそれを身に着ける。ワンピースは肩に掛けて、慣れた手つきで髪を梳く。片手で器用なものだ。感心していたら、緑の目がじろりとこちらを見た。エフィは気圧されて一歩後ずさった。

 何だか、様子が違う。もしかして、女装姿を見られて恥ずかしいのだろうか。やはりよくわからない奴だ。

「折角助けてやったってのに」

 ぽつりと彼が吐き出す。苛立ちを含んだその言葉に、エフィはむっとせずにはいられなかった。

「そもそも、そのワンピースが勝手に出歩くからいけないんだろ」負けじと言い返した。ぞんざいな言葉遣いだったが、構ってはいられなかった。

「のこのこ追いかけるのもどうかと思うけどな」
「仕事の合間に繕って洗濯までしてやったのに、礼の一つも言えない奴に馬鹿にされる覚えはない」

 さすがに反論出来ないのか、彼は言葉を詰まらせる。礼を請求出来るほどには繕えているはずだ。エフィは彼を睨み返した。

「そ、それは感謝してるけどな、いきなり髪を掴むことはないだろ」
「気になるような格好をしているのが悪い」

 エフィは開き直ってしまった。言われてみれば確かにそうなのだが、後に引くことは出来なかった。彼は話していても無駄だと思ったのか何なのか、急にばさりとワンピースを広げた。手早く畳んでしまう。

 何なんだ、一体。エフィは彼の行動についていけずに、その一連の動作を見ているばかりだった。外灯に照らされた彼は少し不可思議な雰囲気を身にまとっている。

「まあとにかく」音を立てるように、わざとらしく、彼が箒の柄で地面を突く。「目を閉じろ」
「は?」

 彼の態度に不吉なものを感じ取る。エフィは一歩下がった。このまま家へ走ろうかと思ったが、彼も同じ家に住んでいるのだった。

「安心しろ。お前は全て忘れる。今起きていることは、夢だ」

 彼はあくまで真剣な表情だ。意味を掴み損ねて、エフィは聞き返した。彼はさっきと同じことを繰り返す。今起きていることは夢だと言う。夢。この言葉を反芻するエフィの脳裏に、あの夢が浮かんだ。今起きていることが夢ならば、あの夢も「起きていたこと」なのだろうか。

「影の記憶は影を呼ぶ。面倒なことになる前に、芽は全て摘み取るに限る」彼は平然と言い放つ。

「つまり、あんたは影と会った奴の記憶を書き換えてて、それで、私のあの夢は現実だってこと?」

 エフィの問いを、彼はあっさりと肯定する。くるりと箒を持ち上げ、柄の先をエフィの鼻先に向けてくる。突かれないようにエフィは慌てて距離を取った。どうなるのかよくわからないが、怖い。

「じゃ、じゃあ、あのワンピースは?」
「あれは、もしかしたら直してもらえるかなーと思って」

 けろりとして彼は言う。それから、思い出したように「ありがとう」と付け加えた。体よく使われたということに腹が立たないわけでもなかったが、わざわざ器が小さいことを示す必要もないとエフィは思い直した。ミシンで簡単に済ませてしまったものなのだ。

「何でそんな格好を」会話が成立しているので、流れでエフィは訊いてみた。
「魔法使いっていうのは、伝統とか規則とかにこだわる生き物なんだよ」苦笑しつつ彼が答えた。

 女装しなければならない伝統やら規則やらがあるのだろうか。変だ。それは絶対に変だ。そもそも魔法使いって何だろう。魔術師と何か違うのだろうか。

 考えていたら、もう一度彼が箒の柄で地面を突いた。その顔は真剣だ。漠然と何をされるかわからない恐怖を覚える。一方、記憶を夢に変えるというのは物語にしたら面白いかもしれない、なんて考えてしまう。職業病だ。エフィは食い下がった。

「とすると、あんたは、将来妻になるかもしれない人間の記憶を改変する気なのか。夫婦の間に隠し事があっていいのか? いや、いいはずがない!」言い切った。

 彼は得心したかに見えた。女装姿の彼に慣れつつある。

「そうだ」きっちりと畳んだワンピースを手に彼は口を開く。「結局、申請したのか?」

 何を、と訊かなくてもわかる。取り止め申請のことだ。申請をしに行きたかったのだが、締め切りは近く、役所は遠いために諦めたのだ。まだ日にちはあるだろうから、また明日でもいいか、と。エフィは首を横に振った。

 彼は不意に遠くを見るような素振りをした。何かを思案しているようにも見える。だが視線はすぐに戻り、ぱちりと目が合った。

「わかってると思って言わなかったんだけど、期限、今日だからな」淡々と彼は言う。まるで他人事のようだ。

 何の、と訊かなくてもわかる。取り止め申請のことだ。そう考えて、エフィはふと思考を止めた。瞬(しばた)く。おかしい。おかしなことになっている。

「え?」エフィは視線を地面に落として呟いてみた。石畳に何かの影がじっとりと広がっている。

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