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ソファー越しに見える彼に何か発言する様子はない。エフィは思い切って彼に声をかけてみた。彼が新聞を閉じて振り向く。その顔は思いの外子供じみていた。
「あの、シリルさんは取り止め申請しないんですか」取り止め、というのは結婚の取り止めだ。どちらかが申請をすれば、まだ、この結婚はなかったことに出来る。
彼はきょとんとした表情を浮かべた。それからふわりと笑った。意外にも可愛らしい笑みだった。色々とよくわからない奴だと思っていたが、こうして見ると、エフィとそう変わらない年齢には見える。
「したいなら、君がするといい」淡々と彼は言う。彼にはする気がないらしい。
「じゃあ、結婚したいんですか」エフィも淡々と返す。
「別に」彼は笑ったままだ。少し苛つく。こういう態度、あまり好きではない。
「それは、結婚してもしなくても関係ないぜっていう、遊び人発言ですか」エフィは睨むように彼を見る。やはり彼はよくわからない奴だ。
「君、面白いこと言うね」彼は笑ったままこう言うと、ふ、と息を吐いて、「興味がないんだよ」と続けた。
「女性に」エフィは思いついたことを返す。何とか会話が続いている。
そうじゃないけど、と彼は困ったように笑う。「政府とか親とか周りがうるさいから、ひとまず結婚したら静かになるかなと思って」ただそれだけ、と彼は言葉を吐き出す。
「そんなものですか」周囲がうるさくて煩わしい、というのはエフィにもわかる。
「そんなものだよ」言いながら、彼は姿勢を元に戻した。
彼が新聞を開く。会話が途切れる。エフィは手元の珈琲に視線を落とした。疲れた顔をした自分が、カップの中にいた。
締め切りには何とか間に合いそうだった。気が付けば日は傾き、夜が近付いてきている。影の時間になる。夢がちらつく。エフィは頭を振った。あれは夢だ。凝った体をほぐすように椅子から立ち上がる。
夜になると、影が動く。何故かわからないがそうなのだから仕方がない。夜に出歩くためにはそれ用のランプが必須だし、ものを外に出しておけば行方不明になることがある。面倒だがそうなのだから仕方がない。エフィは階下に向かった。洗濯物を干したままには出来ない。
黒いワンピースには、少しだけ血が付着していた。怪我をしたのかもしれない。誰が、という疑問は押し隠す。折角なので破れた袖を繕ったのだが、その袖に血がついていたのだ。今は、洗濯されて他の洗濯物と一緒に庭に干されている。
居間に彼の姿はなかった。新聞がソファーに放り出されている。エフィはそんな居間を横切り庭に出た。外はもう暗い。青色のカーテンがはらりと揺れた。冷たい風が首筋を撫でる。さっさと洗濯物を入れてしまおう。
天気が良かったからか、幸いにも乾いている。エフィは一際目立つ件のワンピースに手を伸ばした。風が手の甲を舐める。ワンピースがはためく。するり、とワンピースがエフィの手から逃げた、ように見えた。エフィはワンピースの左袖を掴もうとする。はらりと掴み損ねる。
風が強い。エフィの着ている服もぱたぱたと音を立てている。疲れているから動きが鈍くなっているのだろうか。エフィは右手をじっと見つめてみた。握ったり開いたりする。特に変わった様子はない。
変わった様子なのは、ワンピースの方だった。ふわりと裾から膨らんだそれは、風に流されるままに宙を舞う。舞っている。一瞬、理解が追いつかなかった。え、と間抜けな声が口から零れる。ワンピースが飛ばされている。ワンピースは踊るように門を越え、庭から飛び出していく。えーっ、と言葉にならない戸惑いの声を上げて、エフィは慌ててワンピースを追った。
ふわりふわりと、家の敷地を出たワンピースは、左に曲がる。緩やかな坂道を上っていく。呆然とエフィはワンピースの行方を目で追った。辺りはもう暗い。坂道は真っ直ぐだ。このまま行けば、公園のような広場に辿り着く。ワンピースはどこへ行くのだろう。まるで生きているかのようだ。
夢を思い出す。何も持っていない。外灯では心細い。追いかけていいのだろうか。ワンピースが坂道の途中で立ち止まっている。こちらを見ている、気がする。ワンピースを着た誰かがいるのかもしれない。何だ、これ。どういう事態だ。頭が混乱してきた。
エフィ以外には誰もいない。左方に並ぶ家々にはうっすらと明かりが灯っている。右方には、華やかなまでに明るい街が広がっている。そんな細い坂道に、ワンピースが漂っている。手招きをするかのように、揺れている。異常事態だ。そうか、これも夢なのか。エフィは踵を返そうとした。急に影が落ちる。嫌な予感が背筋を駆ける。振り向こうとした足が、動かせない。地面に、怪物のような影が見えた。
「しゃがめ!」
背後から声が届く。低めの中性的な声だった。言う通りにエフィはしゃがんだ。途端、勢いよく何かが頭上を掠めていく。風がわっと吹く。影が消える。すうっと辺りが明るくなる。地面を見れば、異形の影はどこにもなかった。
エフィはふらふらと立ち上がった。ワンピースがなくなっている。はっと振り向く。そこには、夢で見た彼女が立っていた。右手に箒を持っている。左手には、あのワンピースが握られていた。まさか、本当に彼女のワンピースだったのか。エフィは呼吸の合間に礼を言った。彼女は黙っている。
彼女の金髪は緩やかな波を描く。黒服に包まれた体はほっそりしている。やはり黒いワンピースを着ていた。さらに黒いローブを重ねている。魔女を思わせる出で立ちだ。改めてみると、エフィよりも幾分背が高い。手元のワンピースを見つめて、彼女がふっと笑った。子供じみた笑顔だった。彼と似ている。あれ。
思わず手を伸ばしていた。え、と彼女が声を上げるのも構わず金髪に触れる。掴む。する、と金髪が落ちる。
「え?」