夜と彼女とワンピース
月の綺麗な夜だった。ふっくらと膨れた青白い月が石畳の小道を照らしていた。左方に並ぶ家々は暗く、右方には明かりの消えかけた街並が広がっている。外灯の明かりは心細い。
目の前に黒い影が立っていた。地面から影を引き伸ばしたような黒色が、エフィの前に立っている。身長の二倍はありそうなほど高い。エフィは漠然とそれを見上げる。それは人のように見えた。顔のない、茫洋とした黒色。それがエフィを見下ろしていた。
言い様のない不安がエフィの胸に広がる。コップから水が零れるように、どんどんと不安になっていく。逃げ出したいのに目が逸らせない。
冷たい風が頬を撫でる。髪がふわりとなびく。黒色が「歪む」。ぐにゃりと影が折れ曲がってきて、エフィは慌てて飛び退いた。黒色がずるずると石畳に溶けていく。たちまち何も見えなくなった。はあ、とエフィは息を吐く。
何が起こったのだろう。顔を上げれば、影がいた場所に女性が立っていた。腰まで届きそうな金髪を緩やかになびかせながら、黒服を纏った女性がエフィを見つめている。陰になっていて顔がよく見えない。
彼女が何かを呟いた気がした。聞き返す間もなく、彼女はエフィに背中を向けてしまう。黒色のワンピースが揺れる。
待って、とエフィは手を伸ばす――そこで目が覚めた。
白い光が部屋に差し込んでいる。エフィはベッドで横になっていた。不思議な夢だった。そっと、夢の中で伸ばした右手を正面に掲げる。黒い布を掴んでいた。
何だこれ。もぞもぞとエフィは起き上がった。右手にしっかと掴んでいた黒い布を見つめる。布団の上に黒色が広がっている。手繰り寄せてみると、それはワンピースだった。夢に出てきた女が頭を掠める。彼女も黒いワンピースを着ていた。いや、それがどうしたというのだ。エフィは頭(かぶり)を振る。あれは夢だ。関係があるように思えるのはきのせいだ。
だが、この服は一体どこから現れたのだろう。何故こんなものを掴んでいたのだろう。こんな服は持っていない。
ワンピースを見つめていたら、ぐう、とお腹が鳴った。ここで考えていてもどうしようもない。エフィはそそくさとベッドから出た。ワンピースをベッドの上に広げる。右袖が袖口から肩まで真っ直ぐに破れている。ますますわからないが、ひとまず一階へ下りることにした。
廊下は冷たさを含んでいる。やけに新しい廊下をひたひたと歩き、やはり新しい階段をとたとたと降りる。家の中は静かだった。白い壁が空しい。
居間では、一人の男がソファーに腰掛けていた。ここで暮らし始めてしばらく経つが、未だに同居人の存在に慣れない。珈琲の匂いが鼻をくすぐる。エフィは無言で台所へ向かった。何と会話をすればいいのかわからない。彼は新聞を読んでいる。
珈琲を淹れていると、背後から挨拶の声が届いた。おざなりに挨拶を返す。ぎこちない会話はそれで途切れてしまう。しぃん、と居間が静かになる。居心地が悪い。さっさと自室に引き上げよう。締め切りが近いのだ。エフィはカゴに入れられた丸いパンを一つだけ皿に移した。
早く申請をしなければ、と思うものの、この調子では最初のときと同じように申請を忘れてしまいそうだ。締め切りは目前に迫っている。エフィは珈琲をすすった。鍋に入れた牛乳が温まるのを待つ。
この制度は果たして本当に有益なのだろうか。少子化や晩婚化に対して政府が行っている、いわゆる「結婚斡旋制度」なんてものがなければ、こんなに気まずい思いをしなくても済むのに。エフィはカップの中の珈琲を見下ろした。吸い込まれそうな黒色が波打っている。その水面に、眠そうな顔をした自分が見えた。げんなりする。
二十歳以上の未婚の男女に対して適用される「結婚斡旋制度」は、名簿に登録された人に、機関が適当な結婚相手を誂えるというものだ。登録を拒否することも出来るし、結婚を拒否することも出来る。出来るのだが、エフィは締め切りに追われているうちに登録拒否の申請をし損ねてしまったのだ。結果、ずるずると結婚させられそうになっている。今は「お試し期間」だが、このまま申請をしなければ結婚することになる。
エフィは牛乳をカップへ注いだ。珈琲が白みを帯びて茶色になっていく。湯気で掻き消すように溜息をついた。面倒だが申請に行くしかない。エフィにとって結婚はどうでもいいものだった。面倒なことがないのならば、それで政府が納得するのだからしてもいいのではないかとすら最近は思う。だが、この気まずい空気は遠慮したい。
不意に名前を呼ばれた。トレイに皿を移そうとしていた手が跳ねる。かたん、と皿がトレイに落ちた。慌てて呼ばれた方を向けば、白いソファーに座ったまま彼がこちらを向いていた。背もたれに肘をつくような体勢だ。金髪が日光を反射している。表情は読めない。エフィはさりげなく彼から視線を逸らした。
「昨日の夜、出掛けた?」何かを探るような声で彼は訊く。
「いや、ずっと家にいました、けど」エフィはどぎまぎしながら答えた。素早く猫を被る。
夢が脳裏を過ったが、夢のことを口にする気にはなれなかった。彼がどういう人間なのかわからないのだ。どんな話題を口にすればいいのかも、どういう口調で会話をすればいいのかすらわからない。
そう、とだけ言うと彼は姿勢を戻した。さっと新聞を開く。何なんだ、一体。目的の見えない問いに、エフィは首を捻る。そういえば、彼は仕事に行かなくていいのだろうか、と考えて、今日が休日だということに気付いた。時間の感覚どころか、日付もわからなくなっているようだ。締め切りが近いことだけははっきりしている。
エフィはカップをトレイに置いた。かたん。カップが木を叩く小さな音が部屋に響く。新聞が繰られる音が耳に届く。