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 いつの間にか顔が下がっていたらしい。顔を上げると、眉間にしわを寄せた桐谷と目が合った。少し怖い。否、この状況ではかなり怖い。ぼんやりとした光に照らされた桐谷の顔は、只でさえ響子に対して少ない愛想が三割減少しているように見えた。

「な、何」思わずおっかなびっくりな態度になってしまう。

「いや、あんなに計算出来ないのに、研究者なのかと」と、桐谷は底意地の悪そうな笑みを浮かべた。そう見えただけかもしれない。

「うるさいなあ。計算は苦手なの!」
 痛いところを突かれた。いいじゃないか、計算は機械がするのだから。

 響子がぶすりとしていると、あれ、と子供染みた声を桐谷が上げた。
「じゃあ、どうして総務に配属されているんですか?」

 更に痛いところを突かれた。このままでは蜂の巣のようになってしまう。響子は「う」と言葉に詰まった。何とか言葉を捻り出す。

「ほら、人には得手不得手っていうのがあるでしょ? ここの会社の開発とは相性が悪かったというか」

「だったらここの配属、完全に間違ってるじゃないですか」ミスしてばかりじゃないですか、と桐谷は再三痛いところを突いてくる。なかなか手厳しい部下だ。

「うるさいなあ。いや、それよりもさ、何であんたはこの会社を志望したわけ」もうこうなったら無理矢理にでも話を変えるしかない。再起不能になる前に。

 響子の問いかけに、桐谷はうーんとばかりに首を傾げた。何だか殺意が湧きそうだ。響子は何となく未来の感情を察知した。彼の所作一つ一つに優秀さが現れているような気がするのは僻みだろうか。

 頬杖を突きながら響子はちらりと天井を見た。明かりが点灯する気配はない。それにしても、電力にしろ導力にしろなかなか復旧しない。導力が落ちたら自動的に電力の使用に切り替わるようになっていたはずだが、どうなっているのだろう。はあ、と溜息と共に視線を戻した。下手に「最新設備」を投入するからいけいないのだ。何とか思考を逸らす。

 彼がどことなく余裕の笑みを浮かべているように見えるのも僻みだろうか。自分がどんどん惨めになっていくような虚しい感覚がする。

「何ででしょうね。気が付いたら内定もらってました」

 彼の余裕たっぷりな返答に響子は笑うしかなかった。「いいなあ、優秀で」

「むしろ、清水さんはどうしてこの会社を志望したんですか」

 天井でちりちりと耳障りな音が微かにする。私はもうこれ以上自分を傷つけない! と決意を固め、響子は彼の質問に答えなかった。部下の前では出来る限りかっこいい上司でいたいものだ、これでも一応。

「あ、そういえば、経理のマミちゃんと付き合ってるって本当?」無理矢理に話を変えてみた、第二弾。

 はあ? と素っ頓狂な声を桐谷が上げた。「何ですか、それ。っていうか、人の質問に答えて下さいよ」

 響子は更に無視する。「違うの?」

「人の話聞けよ。しかも、違うし」はああ、と桐谷は溜息と思しき息を吐く。加えて、呆れたような声音で「俺の好きな人は別にいますし」と素っ気なく呟いた。

 意外な返答だ。まことしやかに流れている噂がやはり嘘だったのも驚きだけれど、そもそも彼がこういう話題で答えてくれたことの方が意外だ。さりげなく敬語を無視した発言がされたことは聞かなかったことにしてあげよう。

 響子はわずかに身を乗り出した。「え、嘘、どこの子? 同じ会社? 可愛い?」
「何でそんなに食い付きがいいんですか」逆に桐谷が少し身を引いた。

 彼は何故そんな自明のことを訊くのか。そんなこと決まっているじゃないか、と響子は開き直った。「だって気になるじゃない」

 言った途端にじろりと冷たい視線が突き刺さってくる。彼は軽蔑するような視線を響子に送ってくる。痛い痛い痛い。まさかのここで蜂の巣の危機が迫るなんて。響子は思わず彼から視線を逸らした。

「わかった、よくわからないけどわかったから」落ち着け、その視線をやめろと宥めてから響子は話を促すことにした。

 彼は、響子の好奇心を前に諦めたのか、ふっと息を吐いた。橙色の光が彼の顔に印象的な影を生んでいる。少し陰のある感じが知的ないい雰囲気を醸し出している。

 桐谷は意を決した様子で「同じ大学出身の人なんですけど、絶対自分のタイプじゃないと思ってたのに」と、さりげなく何かひっかかることを述べてから「いらいらするんです。そもそも彼女の行動にもいらつくのに、そんな彼女のことが気になってる自分にも、また」と、やはり何か引っかかる物言いをした。

 背後でじりじりという音がしている。

 響子はその彼の告白を聞いてから首を捻った。何か違う。失礼である。恐らく、失礼以外の何物でもない。それは本当に恋なのだろうか。様々な感情が複雑に入り交じった結果、何か違うものに変わってしまっているのではないだろうか。何だか、響子の知っている「恋」とは違う気がする。好きな人にいらつき、その人が好きな自分にもいらつくというのは、もはや恋でも何でもないような。

 ええと、と響子はさすがに返答に困った。何と言えばいいのか。まさかこんな回答がされるとは思わなかったのだ。

 響子が返答に困っていると、「清水さんはいないんですか」と何故か突っ慳貪な言葉が飛んできた。

 私? と聞き返すと、彼は頷く。
「今好きなのは、もちろん火曜日のド」

 すっぱり切られた。「真面目に答えて下さいよ」

「私は至って真面目だよ」

 ぱちん。まるで響子の言葉に合わせたかのように、言い終わった途端世界が真っ白になった。明滅。ちかちかと明かりが戻ってくる。眩しい。うわ、とさすがの桐谷も辛そうな声を出した。

 響子は何度か意識的に瞬きをした。ぐいーっと伸びをする。体が凝り固まっているような感覚がある。肩が痛い。そういえば仕事がまだまだ残っているのだった。それを思うと憂鬱になる。響子は役目を終えた灯りを右手で覆うようにして消した。

 向かいの桐谷もやはり辛そうに顔をしかめている。彼も大変だ。しみじみと響子は認識した。仕事の出来る優秀な部下だが、恋愛はどうもおかしな方向に進んでいるらしい。大変だ。むしろ心配だ。

 気合いを入れて明るい声を出す。「よし、無事今日中に終わったら焼き肉でも寿司でもおごってやろうじゃないの」

 ふっと桐谷が今日初めて素直に笑った。
「へえ、珍しく気前がいいですね」

 響子も笑みを零した。「ま、たまにはね」

 本来は仕事の終わっているはずの部下に残業させてしまったのだから、これくらいはしてやらないといけないと思ったのだった。無愛想だけれど、突っ慳貪だけれど、彼は彼なりに色々あるのだ。少し、響子の中で桐谷に対する認識が変わっていた。

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