はじまりは彼の言葉から

*部下と停電


「どうして、あなたは俺の上司なんですか」

 ラーメンを啜っているときだった。向かいで同じくラーメンを食している桐谷健吾が不服そうに呟いた。箸から麺がずるりと落ちていく。今、彼は何と言ったのか。尊敬の念に欠けた言葉が聞こえたような気がしたが、もしかしたら彼はそういう意味で呟いたのではないのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。

 しぃん、と部屋が静かになる。窓の外に魔物でもぬうっと現れそうな雰囲気だ。ラーメンを食べる音と雨音が響く。もうこの部署で残っているのは二人だけだった。食事の後には地道なデスクワークが控えている。魔法で何とかなればいいのに、と思わずにはいられない。

 清水響子はラーメンを啜りながら、部下である男を見遣った。密かに王子と呼ばれている彼の表情は見えない。同じように残業しているはずなのに、疲れが感じられない。やはり仕事の出来る人間は違うのか。彼は平然とした態度でラーメンを啜っている。

「なに?」さらりと聞き返してみた。

 だから、と彼は顔も上げずに答える。「どうして、あなたが、俺の上司なのかと、訊いているんです」その口調は苛立ちを含んでいた。

 なにもそんなに強調しなくても。響子としては、そんなことは更に上の人間に訊いてくれという気持ちなのだが、新手の冗談かもしれないので和やかに返してみた。
「嬉しい? 男ばかりのこの会社で女性と仕事出来て」

 やはり彼は顔を上げない。その上、声の抑揚はない。「ええ、おかげでこうして残業出来て、本当に嬉しいですよ」

 全くもって可愛げのない言葉が胸に突き刺さった。事実ではあるが、指摘されると何とも苦しいものがある。それにしても、この年下の男も随分と言うようになったものだ。

「可愛くないやつ」と響子は麺を啜った。
「別に、可愛いと思われなくて結構です」相も変わらず彼は顔を上げようとしない。あくまで淡泊な物言いである。

「年上に対する尊敬とかはないわけ」
 ぶすりとして言ってみれば、そこで初めて彼が顔を上げた。一瞬、外の雨音が耳に飛び込んできた。ふ、と彼は意味深長な笑みを浮かべる。

「尊敬に値する相手なら」

 思わず絶句。どこかで「ぱちん」と音がした。響子は麺を掬う箸を止め、まじまじと彼を見返してみた。開いた口が塞がらないとはまさにこのことか。女性の、年上の、上司に向かってこの態度とは。それも、別に全く仕事をしていないわけではない人に対して、だ。響子を嘲笑うかのように、夜の静かなオフィスに雨音が響く。

 な、と飛び出した言葉を寸手のところで飲み込む。
「可愛くない! 入社したての頃はあんなに可愛い後輩だったのに」

 危ない、もう少しで暴言を吐いてしまうところだった。それこそ「尊敬に値」しない上司である。年下の男が言った戯言などに耳を傾けてはいけない。仕事はまだ残っている。響子は怒りを静めようとラーメンを啜った。

 向かいから息を吐く音が聞こえる。かたん、と箸を置く音が妙に耳に付く。響子は顔を上げまいとラーメンを食べた。少し温くなりつつある。麺も伸びている気がする。

 呆れたような声音が届く。「あなたは俺に一体何を求めてるんですか」

「素直で可愛い後輩」響子は向こうを一瞥するに留めた。
 はあ、と溜息が聞こえる。「私欲を仕事に持ち込まないで下さいよ」

 彼の突っ慳貪な物言いに「えー」と零すが、桐谷は全く取り合わなかった。さっさと自分の仕事を再開している。無情にもキーボードを叩く音がする。もう一度「可愛くないやつ」と呟いてから、響子はラーメンを啜った。温い。

 ずるずるとラーメンを啜る。ようやく食べ終わった。ぐだぐだと寄り道していたら意外と時間がかかってしまった。最後の方はさすがに美味しくはなく、味がよくわからなくなっていた。響子はすっかり冷えた緑茶を飲み干した。仕事なんて大嫌いだ。器を片付けようと立ち上がる。

 ばちん、と背後で不吉な音がした。乱暴に電源を切ったような、回線が切れそうになっているような、何かよくないものを連想させる音だ。響子はちらりと周囲を見回したが、室内に特に異常は見つからなかった。ラーメンの器をさっさと片付けてしまう。女として果たしてこんな生活でいいのだろうか、と切ない疑問が持ち上がったが気付かなかったことにした。

「さっさと仕事して下さいよ」
 席に戻ろうとする響子に対し、目敏く桐谷が声をかけてくる。しようのないことだろうが、その声は苛立っていた。

「言われなくてもする、よ」

 響子は半ば投げやりになりながら返事をした。したくなくても、しなければならないことぐらいわかっている。それが社会人というものだ。これでも一応、彼よりも社会に出ている時間が長いのだからそれくらい理解している。だからといって計算が出来るようになるわけではない。

 ばちん、と頭上で大きな音がした。あ、と思った時にはもう遅く、室内が一気に暗くなった。

 彼も、あ、と呟いていた。「停電」

「やっぱり導力供給が不安定なんだなあ」席に着きながら思わずごちていた。

「データが飛んでないといいんですけど」パソコンを畳む音と、大して不安も焦りも感じられない声が聞こえる。

 導力供給で思い出した。どうせ停電では仕事は出来ないのだから、響子は顔の見えない相手に話しかけた。「そういえば、この話知ってる? 導力を食べる魔物みたいなのがいて、下水道を這いずり回っているんだーってやつ」

 相変わらず返事は素っ気ない。「何ですか、それ。都市伝説にしても酷い」

 向かいから呆れる気配が伝わってくるが、響子は気にしなかった。ふっと息を吐けば、蝋燭の灯りに似た柔らかな光が小さな球体となる。それは、響子と桐谷の間にふよふよと浮かんだ。景色がうっすらと淡い橙色に染め上げられていく。

 こう、と言葉の入り口を探っていく。「あまりに導力が計算通りに出力されないし安定しないから、誰かがどこかで掠め取っているんだと噂に」

「本気で言ってるんですか」

 暖かな橙色の光の中、彼の冷たい視線が突き刺さった。響子はめげなかった。何しろ停電で暇なのである。

「だから、噂だって。私はもちろん、導力研究者としてそんなことはないと思っているけれど」もしそうだったとしたら少し面白いなあと思っているのは伏せた。

 導力は魔物や人の持つエネルギーの一種を電力のように変換したものだが、この国ではまだまだ未発達であり浸透の浅い代物だ。このように根も葉もない噂が流れても仕方がない。魔力の塊である洸石の産出量が世界規模で減少しているのだから、導力の普及は各国の課題でなのだ。響子は一人で考えを組み立てて一人で納得した。

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