青色連敗記録

 図らずも、あ、と声が零れた。痛い日差しの中、進行方向に見慣れた青野の姿を見つけた。校舎の影に沿ってずらりと並べたベニヤ板に向かって熱心に鉛筆を走らせている。散らかった物に囲まれる彼はまさしくいつもの彼だ。ああ、彼が描くのだと思うと、不思議な気持ちになる。晴海は弁当の入ったバッグをきゅっと持ち直した。

 どこからともなく蝉の声と飛行機の音が流れてくる。生温い風が髪をふわりと揺らす。何もしていないのに汗がにじみ出てくるような暑さに目眩がする。夏休みのはずなのに何してるんだろう、自分は、なんて考えてしまいそうになる。

「お疲れ」もはや地面に這いつくばるようにしている彼をじっと見下ろす。

 晴海の声に反応して彼が顔を上げた。「おー、お疲れー。何してんの」

「や、今から私もボードの作業なんだけど」それより、とベニヤ板の方を指し示す。「調子はどう?」

「なに、敵情視察?」鉛筆を持ったまま、にやりと彼が笑う。
「うん。今年こそは絶対勝ちたいから」

 けらけらと青野は笑う。「六連敗だっけ? 六年連続最下位なんだよな」

 そう、と晴海は深く頷いた。由々しき事態なのだ。「三年連続青ブロックの私としては、絶対に負けられないんだから」

 六年連続最下位、と言われても、毎年所属ブロックが変わる人が多いため意識する人は少ない。それが当たり前だ。だが、何の因果か二年連続大敗を喫してしまった、晴海を含む一部の生徒にとって、この記録は是非とも阻止したいものだった。学生生活最後になるであろう体育祭で、不名誉な連敗の記録なんて絶対に更新したくないのである。

 あー、と不意に青野が上を向いた。「じゃあ、黄色も気を付けないといけいないんじゃねえの? あそこはボードやってるの部長だよ」

「嘘だあ。美術部のエースじゃん! ずるい!」
「そうだよ。だから急遽俺が駆り出されることになったの」彼が少し得意気な顔をした。

 晴海は唸るしかなかった。「バックボード」は、生徒の座るスタンドの上に掲げられる巨大な絵のことで、電車からも見えるほどわかりやすいブロックの「顔」だ。もちろん、得点も決して小さくはない。全員参加のダンスなどの準備がまだ始まらない最初の段階では、バックボートの担当者はほとんどこれにかかりきりになってしまう。そもそも、他のものと違って取り付け作業があるために期限が早く来るのだ。

「昨日会ったときは、ボードやってるなんて言ってなかったのに」

 騙されたと晴海が言うと、彼は楽しそうに笑った。それはもう楽しそうに笑うものだから、何だか作業になんて行きたくないなあ、なんて思ってしまいそうになる。

 気持ちを切り替えるつもりで溜息を吐く。「どうしよう。美術部同士の争いかあ」

「争いって」彼がふっと苦笑する。「お前は下手に気合い入れない方がいいよ、絶対」

 時々こうやってなだめるような優しい口調をするから困る。晴海は肩から提げた鞄の肩紐に意味もなく手を遣った。

「そうやって、私を陥れようとしても無駄なんだからね!」噫、自分でもちょっと意味がわからないことを口走った気がする。

 青野があからさまに顔をしかめた。「お、人が親切に忠告してやってるっていうのに何だよその態度は」

 こうなったら、挑戦状を叩きつける思いでいくしかない。実際に挑戦状を叩きつけたこともなければ見たことすらないが、晴海ははっきりと宣言した。「赤には絶対勝つ!」

 こちらはやる気に満ち満ちているというのに、対する青野はどこか素っ気ない。はああ、と彼は長く溜息を吐いた。意味深長な様子で、鉛筆足下に置く。ころんと鉛筆が少しだけ晴海の方に転がる。

「お前はさあ、頑張りが空回りするタイプだから」まるでお母さんや担任の先生のような口調で彼は言う。

 晴海は首をひねった。「そうかなあ。そんなことないと思うんだけど」

「そうだよ。見てたらわかるって、お前のことぐらい」全部お見通しなんだよと言い聞かせるように彼は続けた。

「えー、何で? 私は自分のことも青野のことも全然わからないのに」

 三年間一緒に部活をやってきたけれど、青野のことはよくわからない。好みとか趣味とかそういったものはわかるが、それはある程度会話をしていればわかることだ。本当に見ていればわかるのだろうか、それとも、それくらい晴海が単純だということなのか。

 晴海の返答に対し青野が口を開きかけたところで、「休憩もほどほどになー」と声がかかる。周囲でどっと笑いが起こる。青野が申し訳なさそうな、恥ずかしそうな表情で、誰に対してというわけでもなく返事をした。

 青野がはにかんでいる。あまり見ることのない表情に思えた。部活のときに見せる表情とは少し違う、それはそれで楽しそうな顔。晴海は汗を拭うように頬に手を当てた。暑さのせいか、熱い。

 わんわんと響く蝉の鳴き声がうっとうしい。ちらりと腕時計を見遣れば、自分のブロックの活動が始まるまでにはまだ時間があった。もちろん、体力のある内に出来る限り作業を進めてしまった方がいいことはわかっている。わかってはいるけれど、と意味もなく、弁当箱の入ったバッグを揺らしてみる。

 わずかな沈黙の後、二人は何とはなしに目を合わせた。
「ま、お互い無理しない程度に頑張ることにして」熱中症で倒れたら大変だからな、と彼は付け加える。それから再び鉛筆を手に取った。

「うん、そうだね、お互い頑張ろう」晴海はゆっくりと答えた。

 いつも通り軽く挨拶をして、晴海はその場をそそくさと立ち去ろうとした。弁当箱がかたんと微かに音を立てる。一歩目を踏み出したところで、はた、と気付く。慌てて青野を見た。

「やっぱりさっきの無し! 取り消し!」
 青野も含め周囲の人が何事かと動きを止めるのも構わず大きな声を出した。

 顔を上げた青野は怪訝そうな表情をしていた。「は?」

「や、青野が頑張ったらうちが負けちゃうから、やっぱり頑張んないで! お願い!」じっと青野を見つめて晴海は訴えた。 

 青野が吹き出す。鉛筆が彼の手を放れ地面に転がる。「なんだよそれ」

「だって勝ちたいもん! 絶対!」晴海は弁当箱を再び揺らす。

「わかったわかった。だからもう作業に行けって」

 少し呆れたような、けれど優しい声音で彼が言う。その表情は笑いを堪えているようだった。こんな表情、よく見るような気がするなあと晴海は一瞬不思議な気持ちになった。日差しがじりじりと肌を灼く感覚に目眩がする。

 上手く一歩を踏み出せないでいると、少し遠くから、何してんの、と晴海を呼ぶ声がした。はっとして、声のした方を向けば、同じくボード係の女子が晴海を呼んでいた。はーい、と軽く手を振りながら返事をする。晴海は鞄を背負い直した。

「それじゃ、ありがと!」

 はいはい、とどこか突っ慳貪な彼の返事を背中に受けながら、晴海は自分の持ち場へ向かった。これからしばらくの間彼が「敵」であることに少しうきうきしているのを感じながら。

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