彼女の独白
あんなこと、言わなければよかった。私は昨日の行いをずっと後悔していた。口にしてしまったが最後、空想のような柔らかな感情は消え失せて、現実的な重みだけが変に胸に残ってしまっている。どこかの女の子のように、「誰それが好き」ときゃあきゃあ言う気持ちにはなれなかった。私はそんな可愛い大学生にはなれなかった。そもそも、私はもうすぐ彼と顔を合わせなくなる。今日が最後の公演だった。
主役にはなれない、青いマントを羽織った脇役。姫君に真実の愛をと嘯きながら、実際は富と名声のために嘘をつく愚かな男。コメディとして男女の役が入れ替わっているのは置いておいて、いつも裏方だった自分が舞台に立つのはどうしても違和感を拭えなかった。むなしい。自分で縫った衣装を自分が着ていることにすら変な感じがするのに、その上長々と気障な台詞を吐かねばならないのだと思うと目眩がする。もう既に二公演が終了していたけれど。
次の公演まであと少し時間がある。背景である森の絵が描かれたパネルに囲まれた舞台の真ん中には棺が置かれている。その中に彼が白いドレスを着て座り込んでいた。一体どこで入手したのか知らない長い黒髪のかつらをつけ、フリルやレースがたっぷりの白いドレスを着ている。私以上に化粧もばっちりだ。他の役者が舞台上で最後の確認をしているのを楽しそうに眺めている。
彼の笑顔が好きだった、いや、「も」好きだった。女装が似合うとは決して思わないけれど。
「もうすぐ終わるね」
不意に背後から声をかけられた。緞帳の陰から友人の一人が顔を覗かせている。悪い奴ではないのだけれど、好奇心に満ちたその顔は、今は遠慮したい気分だった。おそらく、昨日の話を聞いて何か思ったに違いない。
「このままでいいの?」
何が、と訊く前に、一つに束ねた茶髪を揺らして彼女は私の体を軽く押した。
「わ、ちょっと!」
下手の舞台袖からよろめいて中央へ躍り出てしまう。どうしたの? と方々から注目を浴び、笑われて、私は俯いた。彼女は裏で笑い転げているに違いない。後で覚えてろ、と私は憎々しく思った。本当、あんなこと言うんじゃなかった。
「どうしたー?」
笑いをにじませた彼の声が右方から届く。私はどうしようもなくてふいっと顔を背けてしまう。顔が熱い。彼を見られない。私の気持ちなんて彼が知る由もない。たぶん、彼女以外誰も知らない。ああたとえば、せめてもう少し可愛い顔で可愛い性格だったなら。
「別に、何でもない!」ああ、また可愛くない言い方をしてる。
せめてもう少し可愛くて、器用で、勉強のできる人間であったなら。こんな形で部活をやめることなく、もう少しの間は彼に恋をしていられたのかしら。ああ馬鹿馬鹿しい。考えてむなしくなる。どんなに私が恋したところで、彼が私を好きになってくれるわけではないのに。
あ、と彼が声を上げた。「わかった、今日が最後だからちょっと寂しくなってんだろ」
当然ながら私の気持ちなんて知っているわけがない彼の無邪気な声に、思わず涙が出そうになった。そう、確かに、そうだ。続けていられるのならもっと続けていたい。だが、成績的にも体力的にも続けていくのはもう難しかった。ぐっと涙を堪える。
「なによ、寂しくなってたらいけないの?」
じろりと彼を見下ろせば、彼は慌てた様子で言葉を濁らせた。「いや、別にそういうわけじゃ」
もう泣き出してしまいたい。私は再び視線を彼からそらした。好きなものを諦めるのは辛い。改めて自分は演劇が好きだったのだと気付かされる。
私はふらふらと歩き始めた。泣き出してしまわぬよう、台詞を吐き出す。もうすぐ最終公演が始まってしまう。出来るだけ終わりを考えないようにしよう。よし、練習しよう。台詞の確認をして、気持ちを切り替えるんだ。
脇役だから見せ場は短い。主人公よりも先に、眠れる姫君へ辿り着いただけの存在。嘘で塗りかためられた彼の台詞は、決して多くはないが一つ一つが長い。現実にこんな男がいたら嫌だなあと思う。なるほど、姫君は正しい選択をした。もちろん、主人公役の女の子の方が私よりも可愛い。そういう点でも正解だ。
上手く気持ちが切り替えられない。彼は私を好きでもないし、今後好きにもならない。たぶん、よくて仲間の一人として記憶に残るかな、という程度だろう。涙が出そうになる。
ふ、と息を吐く。私は台本に沿って棺の前にひざまずいた。視界に白いドレスが入ってくる。襟元から胸にかけて盛大に飾った薔薇で視界がいっぱいになる。私が縫ったドレスを、彼が着ている。冷静に見れば滑稽でしかない。冷静でなくてもきっと滑稽だ。それなのに、ひどく切ない。私は台本通り棺の縁に手をかけた。
衣擦れの音が耳をかすめる。骨張った手が私の顎を捕らえる。あれ、と思う間もなく、えいっと顔を上げさせられる。彼の顔が近い。かあっと顔が熱くなった。変にしっかり化粧をしている彼の顔は奇妙なはずなのに、笑えない。何なんだろう一体。頭が混乱している。しないはずがない。一体彼が真剣な顔つきで何を考えているのかわからなかった。
心臓が痛い、苦しい。
ホールに広がる喧噪の中、彼がふっと囁いた。少し申し訳なさそうな表情で、「ごめん」と。
彼は一体何を言いたいんだろう。え? と戸惑う私を、彼は気に留める素振りすら見せない。
顎に添えられていた手が離れる。背中に手が回される。「え」と口にした瞬間、棺の中に引っ張り込まれた。ずるっ、とみっともなく上半身が落ちる。棺で腹部が圧迫されて痛いし苦しい。わたわたともがく。
「わ、たっ」
起き上がろうとしたら、ぐっと頭を押された。もうわけがわからない。混乱した頭で、棺に敷かれた白い造花を掴む。私は半ば彼のドレスに顔を埋める体勢になっていた。
不意に頭上から影が落ちてきた。「昨日、聞いた」
何を? 訊きたくても上手く言葉に出来ない。更に、とどめとばかりにマントを引っ張られて棺の中に引きずり込まれた。ひっくり返って棺の中に落ちる。首とかお腹とかが痛い。私はいつの間にか彼を見上げていた。彼の膝の上に転がっているような変な体勢。
照明の強烈な光を浴びながら、逆光の彼と見つめ合う。眩しい。どきどきしてしまう。私はぽかんとして彼を見つめるしかなかった。手から造花が滑り落ちる。彼は柔らかに笑っている。
彼の口が動く。何かを伝えている。たぶん、三文字か四文字くらい。
残念ながら読唇術は会得していない。聞き返そうとしたが、事態に気付いた部員達がどうしたんだと集まってきて叶わなかった。はっとして私は慌てて起き上がろうとした。狭い棺の中に転がっているためバランスを取れず、上手く起き上がることが出来ない。けらけらと彼は笑う。顔が熱い。ああもう。私は恥ずかしさと悲しさで再び泣きたくなった。
「ちょっとした悪戯」集まってきた部員達に彼が軽やかに宣う。
そうだ、そんなところも好きだった。でも今は早くこの場から立ち去りたい。もがいていると、彼がひょいと上半身を支えてくれた。皆に笑われ私はもう俯くしかない。今日が最後の公演なのになんという体たらく。さりげなく彼の手が肩に回されているのを嬉しく思うのも馬鹿馬鹿しい。
可愛い女の子になりたかった。彼から好きだよと言われるような、素敵な女の子に。あんなこと言わなければよかった。そうしたら、変に意識しないで済んだのに。
「もー、びっくりしたじゃない!」駄目だ、怒った振りでもしないと泣いてしまう。
「ごめんごめん、つい」
けらけらと皆笑っている。私は、む、とふくれるポーズだけ取った。もーとか何とか言いながら皆に背を向ける。棺の中で縮こまって膝を抱える。膝に顎を乗せてぶすりとする。これが私の精一杯。
あ、と彼の声が聞こえた。再び衣擦れの音が耳をかすめる。彼との距離が近くなる。ずるずると彼が右から顔を覗き込むようにしてくる。私は必死に左を向いた。たぶん、顔は真っ赤になっている。それなのに、耳元に彼が口を寄せて。
「好きだよ」
幻聴が聞こえた。私はぱっと彼の方を向いてしまう。彼は口元に人差し指を当てて微笑んだ。悪戯っぽい笑みにわけがわからなくなる。え、と開いた口のまま私は彼を見ていた。聞き返したい。もしかしたら、好きすぎてとうとう幻聴を聞いてしまったのかもしれないから。
「花がついてた」彼は悪戯っぽい声を出して、私の髪を撫でつける。「さ、そろそろ次の準備しないとなー」
はきはきした彼の声に他の部員達もはっとなる。確かにもうそろそろそんな時間かもしれない。次の公演の準備がいよいよ始まる。終わってしまう。私はどうすればいいかわからずじっと膝を抱えて俯いていた。頬も耳も首も熱い。
「大丈夫か? さっきは悪かったな」
悪びれもせず明朗な彼の言葉に私は首を横に振る。怒っていないし特にけがもしていない。けれど、恥ずかしくて顔を上げられない。私はきっと今、真っ赤になっている。さっきの彼の言葉でおかしくなったのかもしれない。きっとそうだ。
「嘘じゃないからな」
ぼそりと聞こえた彼の声に私ははっと顔を上げる。見れば、彼はさっきとは違い頬を赤らめていた。悪戯っぽい笑みを浮かべるでもなく、どこか余裕のない照れた表情。私は思わず口元を手で覆った。
単純に、嬉しい。
「どうしよう、泣きそう」
「ばっ、本番前だから泣くなよ!」