放課後のピアノ
放課後の特別教室は雰囲気が違う。どこか寂しい。教室と違って生徒がいつもいる場所ではないからかしら。そんな特別教室がずらりと並ぶ三階の廊下の雰囲気は少し怖いものがあった。階段を上がりきった時点でなんだか空気が変わる気がする。窓から夕日に傾きかけた日差しがきらきらと廊下を照らしている。
進路のことで先生に呼び出しをくらい、どちらかというと気分は落ち込んでいる。英語なんて嫌いだ、なくなってしまえばいいのに。寂しい空気に満ちた廊下はさっさと通り抜けて、部活に向かいたかった。美術室はもう少し遠い。締め切りまであまり時間がないというのに。私は小走りで廊下を通り抜けようとした。
音が、聞こえる。
静寂に包まれているはずの廊下に響く透明な音。びくりとして私は思わず足を止めた。ピアノだ。音楽に疎い私でも知っているクラシック。ゆるやかに耳に届く音はとても綺麗だった。少し、このまま聞いていたいなと思うほどに。
それにしても、一体誰が弾いているのだろう。吹奏楽部以外で音楽室を使う学生はいないに等しい、というか知らない。美術室の位置関係からこの廊下を通るのは少なくはないが、こんな風に誰かがピアノを弾いているのは初めての現象だった。
はた、と特別教室の並ぶ廊下を見通す。ひっそりとした廊下の雰囲気に誘発され、私の頭の中を嫌な想像が駆け抜けていく。いやいや、そんなわけはない。私は頭を振った。誰もいないのに美術室からピアノが聞こえるなんて、そんな話は聞いたことがないし。
確かめてみればいいんだ。よし、と呟いてから、私はそっとドアに近付いた。背伸びして四角い窓から部屋の中を覗き込む。
選択科目は美術なので、音楽室を見るのはこれが初めてだった。道具でごちゃごちゃしている美術室とは全然違う。白い部屋に、黒板ではなく大きなホワイトボードが設置されている。そのホワイトボードの前方、つまり教室の前の方にピアノが置かれていた。私は教室の後ろから覗き込んでいるので、誰が弾いているのは見えない。全てが日光を受けてきらきらしていた。
私はすとんと踵を床につけた。多少は防音されているんだろうけれど、ドア越しにピアノの音が聞こえる。心地よい音に、部活に行くことを忘れてしまいそうになる。だめだだめだ、そんなの絶対だめだ。締め切りはもうすぐそこまで迫っているのに。音楽を振り払うように頭を振ってから、私はそろそろと歩き出した。
左をちらちらと気にしながら歩く。一体誰が弾いているんだろう。ぴょんっと跳ねたら見えるかな、いや、見えないだろうなあ。わざとらしく歩く速度を落としながら音楽室を通り過ぎる。
あ、音が。
ぴょん、と音が不自然に聞こえた。ぷつりと一瞬だけ音が途切れ、何事もなかったかのように再開される。今、本来と違う音があった気がする。ぱっと私の頭の中に、楽譜から落ちる音符がコミカルに描かれた。いけない、変な想像をしてしまった。
誰が弾いているのか見えるかしら。私は再び音楽室へ忍び寄った。このままだと気になって部活に集中できないかもしれないから、なんて言い訳を考えながら。
さっきと同じようにドアに張り付いて覗き込む。ピアノは斜めに置かれていたため、幸いにも演奏者を見ることができそうだった。ピアノの陰からちらりと見える黒い髪は短い。眼鏡をかけた大人しそうな男の子だ。幼さの少し残る、知らない顔だった。誰なんだろう。
ピアノの周りだけ空気が、世界が違うみたいだった。雑音のない空間に響きわたる綺麗な音。きらきらしている、綺麗な世界。描きたいなあ、なんて呟いていた。その途端、顔がかあっと熱くなった。何を考えているんだろう、私。
動揺してドアに体重をかけてしまう。がた、とドアが音を立てた。私は慌ててドアから飛び退いた。そのせいでまた音がする。反対に、ピアノの音はふつりと途切れていた。
あ、まずい。男の子が立ち上がる様子が窓から少しだけ見えた。どうしようどうしようどうしよう。彼の様子を覗き見ていたことが急に恥ずかしくなって、気が付けば私は走り出していた。逃げるしかなかった。
背後でドアの開く音を聞きながら、スカートが乱れるのも構わずに走る。顔が熱い。心臓がどきどきしてる。日の落ちかけた薄暗い廊下を一気に走り抜ける。耳の奥で心臓がばくばく言ってる。胸が痛い。勢いよく、廊下の突き当たりにある美術室に飛び込んだ。
乱暴な私の登場に、わいわいと部活をしていた皆が驚く。口々に、どうしたのー? なんて声をかけてくる。そんな問いかけに答えることもできず、私はただ肩で息をしていた。ドアに背を預け、ずるずると床に座り込んでしまう。じっとりと制服が重たい。
私はそっと頬に手を当てた。耳が、熱い。それから耳を塞いでみる。耳の奥で、彼のピアノが鳴っている。絡みついて離れない。まだ心臓がどきどきしてる。
「どうしよう……」うまく声が出せない。
なんで逃げたんだろう。私は、膝を抱えてうずくまった。こんなに耳の奥で音が鳴っているのに。それくらい、綺麗だったのに。恥ずかしくて逃げたくせに、もう一度聞きたいなあなんて考えてしまうのは、どうして。
ああ、まるで恋みたいだ。
YUKI/坂道のメロディ
イメージではロックなのですが、難しかったのでピアノにしました。