可愛い君の好きなもの

 唐突ですが、私には今、気になる人がいます。その人は、私が電車に乗るときには既に乗っていて、私が降りる駅の一つ前の駅で電車を降ります。火曜日と水曜日によく見かけます。同じ電車に乗る金曜日には見かけません。月曜日と木曜日は時間割の都合で早めの電車に乗るのでよくわかりません。彼は恐らく私と同じ大学生だと思われます。そのような服装をしている、と私は思っています。独断と偏見です。

 兎にも角にも、私は彼が気になって仕方がないのです。何故なら、彼が私と読書傾向が近いようだからなのです。私は幼い頃から読書が好きでしたが、どうも周囲の友人とは読書の趣味が合わずいつも孤独でありました。しかし、彼は悉く私の読んだ本ばかり読んでいるのです。先週私が読んでいた本を、今週彼が読んでいる、といった具合なのです。気にならないわけがありません。私は是非彼とお友達になりたいと思っているのでした。好きな作家について語り合い、おすすめの本を紹介して戴きたいところです。

 私はいつものように彼をちらと見遣りました。私は些か背が低いので彼を見上げなければなりません。非常に混んでいるわけでもなく空いているわけでもない車内で、彼は上手に吊革を掴みながら文庫本を読んでいます。その文庫本は今私が右手に持つものと同じものです。完全な一致です。私は水玉のブックカバーを掛けているために見た目ではわかりませんが、隣同士で同じ本を手にしているのです。何という偶然! 何とかして彼とお友達になりたいものです。いつも同じ読書の趣味を持つ友達がいなかった身としては、この機会を逃せないのです。短いながらもこの人生のなかで、私は少なからず寂しいと思っていたのでした。ですが、そもそもそういう機会があったとして、果たして彼は私とお友達になってくれるのでしょうか。

 がたん、と電車が揺れます。ホームに入った電車は段々と速度を落としていきます。見慣れた風景が左へ流れていきます。総じてどこの駅も古びた感じのあるこの沿線が私は決して嫌いではありません。屋根がなく雨のときに困ることもしばしばありますが、屋根で覆われたぴかぴかの真新しい駅というのも何だか落ち着かないものがあります。私が降りる駅は最近改修されたのですが、屋根はあるものの光があまり入らないので何だか明るい感じがしません。ああ、全く読書に身が入りません。こういう日もあります。

 もう一度大きく揺れて電車が停止します。扉が開いて、多くの人がどたどたと降りていきます。この駅はなかなか降りる方が多いので、気を付けないと、こけたり荷物を落としたりと散々な目に遭います。幸い、今日の私の周辺は穏やかでした。扉から少し離れているおかげかもしれません。そういえば大学に通い始めた頃は大変でした。

 脈絡なく、ふ、と過去を振り返ろうとしたとき、足下に何かが落ちてきました。足音の中に「ばさり」と聞き慣れた軽い音が響きます。音につられて足下に目を遣れば、それは先程彼が読んでいた文庫本でした。表紙が外れかけています。降りたり乗ったりの騒々しさの中で落としてしまったのでしょう。私はさっとそれを拾い上げました。はたはたと汚れを払い、めくれた表紙を掛け直します。そこで、扉が閉まる音が聞こえました。

 もしかしたら、これはチャンスなのでしょうか。この機会を逃せば私は金輪際彼とお友達にはなれないかもしれません。急に私の胸はどきどきし始めました。

 意気込んで隣を見ると、いつの間にか隣にいたはずの彼はいなくなっています。彼の降りる駅はもう一つ先のはずですが、諸事情によりもう降りてしまったのでしょうか。では、この本は一体誰のものでしょう? 私は手元にある二冊の本に目を落としました。今、私の手には見た目は違えど同じ本が二冊あります。不思議なことです。私はこの本を一体どうすればいいのでしょう。後で駅員さんに渡せばいいのでしょうか。彼とお友達になれるかもしれないと思った私はちょっぴり残念な気持ちでした。

「あの」

 ぐるぐると考えていたとき、ふと後ろから声がかかりました。落ち着いた低い声です。私は一体なんだろうかと、振動で体がよろけないように気を付けながら振り返りました。

 思わず、あ、と声が出てしまいました。そこにいたのは、先程まで私の隣にいた彼の人だったのです。彼は電車を降りたのではなく、私の後ろに移動していたのです。恐らく人の移動を避けてのことでしょう。

「すみません、その本、俺のなんです」彼は明朗な口調で、しかし少し申し訳なさそうにそう言いました。

 ああ、と私は本に目を遣り、それから表紙が向き出しの本を差し出しました。「奇遇ですね、私も同じ本を読んでいるんです」

 お友達になれるかな作戦、実行です。さりげなく会話をしてみようと思ったのです。少しおかしかったでしょうか。そうは言っても口から出た言葉は回収できないのですが。

 彼は、ああ、と呟いてから「面白いですよね、これ。あと少しで読み終わりそうなんですけど、最後まで緊張感があって」とはにかみました。

 何とか会話になっています。驚きです。びっくりです。私はとても嬉しくなりました。まさか、読書の趣味をわかちあえる人とお話できる日が来るなんて! それにしても、先週は違う本を読んでいたのに、もうこの本を読み終えるなんて凄いです。読むのが遅い上に読む時間を上手に確保できない私には到底真似できません。もしかして平行して色々な本を読んでいるのでしょうか。私は最早尊敬に近い思いを込めて彼を見上げていました。

「実は、私はまだ半分くらいしか読めていなくて。この作家さん、好きなんですけど、読むのにいつも苦労してしまうんです」

 不思議なことに少し恥ずかしさを覚えていると、頭上から柔らかな声が落ちてきます。「確かに、難しい感じですよね。でもその分読みごたえがあって、俺も好きだなあ。まあ、まだこれしか読んだことないんですけど」

 がたん、と電車が揺れます。私はふっと窓の向こうに視線を移しました。一方、彼は優しい人のような気がしていました。きっと気遣いのできる方なのでしょう。柔らかな声から私は勝手に、都合良くそう解釈しました。何と言っても同じ読書の趣味なのです。きっとわかりあえるはずです。悪い人はいないはずです。

 電車はゆっくりと速度を落とし、ホームへ滑り込んでいきます。もうすぐ彼は電車を降りてしまいます。私は全くもって残念な気持ちでいっぱいでした。もう少し話していたいと思っていました。非常に残念です。私の中で彼は既にお友達となっていました。

「あの、もしかして明日も同じ電車ですか?」

 ちょっぴり悲しい気持ちになっていると、またもや頭上から声が降ってきました。私はそっと視線を彼に戻します。彼は少し戸惑ったような、困ったような、何とも言えない表情をしているように見えました。

 もしかして、彼も私をお友達と思ってくれているのでしょうか。もしそうだとしたら嬉しいことですが、安易に期待していると、そうでなかったときのがっかりが大変なことになってしまいます。彼はただ場を繋ぐためだけに言ったのかもしれません。私は慎重にならざるをえませんでした。

「はい。火曜日と水曜日はこの電車です」

 不審に思われないよう平静を心がけますが、心中は穏やかではありません。何しろ、読書の趣味が合う初めてのお友達ができるのかもしれないのですから。私は電車の揺れに耐えながらじっと返事を待ちました。

 私の返答に対し、彼はふんわりと笑いました。綻んだ、という感じです。「じゃあ明日よかったら、おすすめの本、教えて下さい」

 予想外の返事です。私は一瞬我が耳を疑いました。今までどんなにおすすめしても色よい返事を貰えたことのないこの私が、おすすめを教えて欲しいと言われているのです。それも、趣味の合いそうな人から。それは本当に嬉しいことでした。たががそれくらいでと思われる方もあるかもしれませんが、本当に嬉しかったのです。

 私も思わず笑っていました。「はい、喜んで」

 その時、何事もないかのように、いつものように、ゆっくりと電車の扉が開きました。

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