青色ヒーロー

 どう見ても左手の薬指に指輪がはまっている。一体いつの間に自分は指輪を手にしたのだろう。思い出そうとしてもどうしても思い出せなかった。朝起きた時点で既に指輪をはめていたのだ。仁礼理子(にれあやこ)はぼんやりと指輪を眺めた。しっかりと左手の薬指にはまった指輪は恐ろしい程華奢なデザインで、やはり何度見ても見覚えのないものだった。青く透き通った小さな石を乗っけたその指輪は理子の指にぴったりとはまっている。つまり、抜けない。朝から幾度も挑戦しているが、指輪は外れそうになかった。

 指輪はあまり好きではない。何をしても視界に入ってくるのが非常に気になってしまうのだ。今も、書類を整理しながらも気になって仕方がない。外したい。外したいが、不用意に触ると石が外れてしまうのではないかと不安になり、自然と腫れ物に触るような扱いになってしまう。もし何かあったらどうすればいいのだ。これでは銃も握れない。そう考えてから、理子が銃を手にしなければならない時は余程の非常事態だろう、と思い直した。苦笑。非常事態では指輪を気にしている余裕もないはずだ。

 理子は書類を揃えると、提出するために席を立った。いつものように淡々と室長の机へ書類を提出する。室長は明るい茶髪を一つに束ねて何やら熱心に書き物をしていた。まだ同僚には指輪の存在はばれていなかったが、室長は妙に鋭いので油断ならなかった。どうも理子には見当たらない「女の勘」というやつかもしれない。見つかったら最後、色々と質問責めにされるのは目に見えていた。むしろ自分が質問したいくらいだ。この指輪は何なんだ、と。そこで一瞬だけ脳裏を過った人物がいたが、理子はその人物に関して何も考えないよう努めた。

 脳裏を過った人物を頭の中から滅却し、すたすたと自分の席へ戻ろうとした矢先、後ろから声がかかった。明るいその声に、理子はスカートを翻して振り向いた。室長は穏やかに笑っている。無意識に背筋が伸びる。

「ちょっと下へ行って、これ、返してきてくれる?」

 室長は束になった領収書をひらりと示してみせた。様々な領収書が出来るだけ大きさを揃えるようにして束にされている。室長の几帳面な性格が現れていた。領収書に加えA4サイズの書類も大人しく受け取ると、室長はにやりと笑った。

「その指輪、どうしたの?」
 室長はペンで件の指輪を指し示した。やはり気付かれたか。理子は決してこの年上の彼女が嫌いではなかったが、こういう話題は好きではなかった。しかし気になる話題ではあるのは否めない。

 する、と理子は指輪に触れた。自分でもわかるくらいぎこちない笑みを浮かべる。「それが、どうしたのかもわからないんですよ」

「あんた彼氏いたっけ?」
「ご想像にお任せします」この質問には上手く笑顔で答えることが出来たと思う。

 けらけらと室長は楽しそうに笑った。彼女の笑い方は小気味いい。「もしかして、酔った勢いで自分で買ったか、誰からか奪ったんじゃないの?」

 理子はどきりとした。指輪にもう一度触れる。直ぐに「さすがにそんなことはしないですよ」と笑ったが、そういえば昨日酒を飲んでからの記憶が飛んでいる。そしてその場に彼がいたことは確かに記憶に残っているのだった。


 何とか室長との会話を切り抜けると、理子はそそくさと目的の場所へ向かった。靴音を響かせながら階段を下りていく。三階建てのこのビルには、小さいながらも地下がある。むしろ地下の方が規模が大きく、そして重要である。あくまで地上はカモフラージュに過ぎないというのは、この「会社」に勤める人間ならば誰でも知っていることである。それは理子も例外ではなく、だからこそ厳しい態度で臨むのだ。びしっとするべき、とは室長の方針であった。理子はこの方針が嫌いではない。

 一階、地下一階と下っていく内に、少しずつ建物の様相が変化してくる。地上は茶色を基調とした暖かみのあるデザインが用いられているが、地下は灰色を基調としたまるで秘密基地のような体裁がとられていた、というか秘密基地である。きっと色々なことにお金をかけすぎて内装にまで手が回らなかったのだろうと理子は決めつけていた。一方で、お金の計算が得意な正義の味方は嫌だなあとも思ったが。

 倉庫と化している部屋ばかりの地下一階を過ぎ、談話室がどーんと設置されていることしか知らない地下二階も通り過ぎようとしたとき、不意に明るい声が耳に飛び込んできた。

「仁礼さん! 仁礼さんってば!」

 声のした方を向けば、にぱっと笑った青年が手を振っていた。地下三階へと向かう階段から彼を少し見上げる。談話室で早めの昼食をしていたらしく、彼の左手にはサンドイッチが握られていた。相変わらずの、高校生だと言われてもわからないような様子である。

 冷暖房のためのガラス戸を慌ただしく開閉して彼は駆け寄ってくる。サンドイッチを慌ててテーブルに置く様が可愛らしかった。幾つか年下の彼はすらりとした背格好で、だが「可愛い」と評判の青年である。理子は犬が尻尾を振って駆け寄ってくる様をちらりと思い浮かべた。そう思ったことがばれると彼の機嫌が悪くなることはわかっているので、心情をおくびにも出さず理子は彼を見上げる。

 一段上で立ち止まった彼は、物珍しそうに理子を見下ろした。まるで大学に行くかのような軽い出で立ちで彼はそこに立っている。犬の毛並みを思わせる茶髪はふわふわとしていた。

「どうしたんですか? 珍しいですね」
 理子は手に抱えた書類を示してみせた。「仕事」

 ああ、と彼は得心したようだった。それから幼さを感じさせる仕草で書類を覗き込む。「何だか今回は多いような」

 平然と書類を覗き込む彼の言葉をぴしりと遮る。「交際費って何かしらね?」
「何ですかねえ」やはり平然と彼は言ってのけた。

 目が合う。どちらともなく微笑む。それはどう考えても不自然なものだったが、お互いの思惑のために今はこうしているのが賢明であるのを二人は理解していた。たとえば、理子はここで彼を糾弾したところで何も意味がないことを知っているし、彼もここで簡単にあしらえる程理子が優しくないことを知っているのだった。

 そうやってさして長くもない間二人で見つめ合っていたが、やがて彼の顔つきが変わった。真剣な表情がふっと見え隠れする。

「そんなことより」

 する、と彼が指輪に触れる。そのまま意味深長な手つきで薬指を撫でてくる。やはり犯人はこいつだったのか。理子はあえてその手を振り払わなかった。ここぞとばかりに彼は指を絡めてくる。理子はあくまで彼を睨むに留めた。職場でむやみやたらと騒ぎたくはない。

 彼はふわりと笑う。「ちゃんとつけてくれてて嬉しい」

「だって外せないから」
 にーっこりと理子も笑い返してみた。

「だって外されたくないですから、ね」

 彼はにーっこりと笑みを深める。こうなったら意地でも外してやる、と理子は内心固く決意した。その決意を悟られぬように、一段だけ下がる。ぐずぐず立ち話をしている余裕はない。非常勤大学生ヒーローと事務員を同じだと思ってもらっては困る。

 逃げようとした理子の左手を彼は離さない。
「ゆ、由良」理子はさすがに彼の手を振り払おうとした。「仕事があるんだけど」書類がくしゃりと音を立てる。

「名前でいいのに」
 人の話を聞いているのかいないのか、他人行儀だなあと由良は頬を膨らませた。むしろお前が慣れ慣れしいんだと喉元まで出かかった言葉を、理子は寸手のところで呑み込んだ。危うく会社の階段で暴言を吐くところだった。ああもうこれ以上は関わっていられない。理子は彼の手を振り解いた。

「あ」という彼の呟きに合わせるように、携帯電話の着信音が短く響く。ピリリと鳴り響いた電子音に理子は心底驚いた。寿命が少し縮んだ気がする。そんな理子を特に気にかけることもなく、由良は慣れた手つきでジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。

「俺も行かないと」
 手慣れた様子で着信を確認してから、由良は残念そうに言う。それに適当な返事をしながら理子は胸を撫で下ろした。書類を抱え直す。

「今、良かったって思いました?」

 不意に由良が距離を詰めてくる。理子は半ば仰け反るようにして彼から離れるよう努めた。眼前で彼がにやりと笑う。理子は出来る限り目を逸らさないようにした。ここで逸らしたら負けだと直感したのだ。

「そうね」せっかくなので素直に肯定してみる。なるたけ笑顔を心がけた。

 理子の返事にめげる様子もなく、彼は笑んだままだった。しぶとい。理子がねめつけるかの如く由良を見ても、彼は笑顔を崩さない。なかなかしぶとい。目を逸らそうが逸らすまいが見事に負けている気がするのは何故だろう。

 急に腰に手が回される。え、と声を上げる暇もなく引き寄せられる。くしゃりと書類が微かに音を立てる。慣れない展開に脳の処理が追いつかない。「あ、まずい」と思ったときには右頬にキスされていた。一気に顔が熱くなる。条件反射で腰に手を伸ばしかける。銃も何も持っていないのだったと思い出す頃には、書類は無惨にも階段に散らばっていた。

「じゃあ、また」
 軽やかにそう言うと、彼は実に楽しそうに階段を上っていった。何なんだ一体。年上の威厳なんてどこにもない。結局指輪が何を意味しているのかもわからない。理子は大人しく書類を拾うしかなかった。そして同時に、絶対に指輪を外してやると脳内で計画を練り始めた。

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