水の中で、思う。誰かが呼んでいる気がする。けれど、口にされるその名は聞いたことのないもので、知ってはならないもののようにふわりと頭に浮かんでは消えていく。自分が誰なのかわからない。胸が痛い。自分の中に別の誰かが存在しているかの如く、記憶は鮮明、声は明瞭。意味がわからない。答えをくれる人はいるのだろうか。ある日突然死んでしまった父の後ろ姿が脳裏を過る。一度も理解出来なかったあの人の考えを、理解出来る日なんて来るのだろうか。
 白いワンピースが赤く染まっていく。胸が痛い。心臓よりも少し上に確かに存在している石から赤い光が溢れていく。
(どうしてこんなに世界が醜いのか、私は)
 声が聞こえる。冷えた女の声が頭の中で響く。ルイは足を抱えるようにし、子どものように丸くなった。水の中で浮いている。息をしているのかわからない。それでも水の中にいる。景色は何もかも灰色で、滲んでしまってぼやけている。
(戻っておいで)
 冷えた指先の感覚は遠い。戻るってどこにいけばいいの。ルイはそっと石に手を当てた。硬い石の感触がある。どこか暖かいように思えるのが不思議だった。生きているのかもしれない。だから声を聞くのかもしれない。すうっと目を閉じた。水が体にまとわりつく感覚も、服が濡れて下へと引きずられる感覚も、段々と遠くなっていく。
 暗闇の中で、うずくまり泣いている女の子がいた。闇と同化しそうなほどの漆黒の長い髪。年もルイとそう変わらないくらいに見えた。手を伸ばそうとしても体が動かない。見ていることしか出来ない。体が地面からふわふわと浮いている感じがした。ちょうど水の中にいるのとよく似ている。
「……私はもう歌わない」
 女の子がぽつりと呟いた。嗚咽の中に混じった驚くほどしっかりとした声だった。
 これは夢だ。夢でなければならない。石のある場所が痛い。石が痛いのかどうかわからない。あまりの痛さに前屈みになる。息が出来ない。目を開けた。
 灰色の世界だった。遠くで硝子が割れる音がした。水が流れる。ぼやけた世界が少しずつはっきりと輪郭を取り戻していく。浮いている感覚は消え急に重力を感じる。水かさはゆるゆると減っていく。同じくルイの体も地面に近付いていく。赤い光が水面に反射してきらきらと場違いに綺麗だった。人工の光に照らされた灰色の世界を瞬く間に染め上げていく赤い光。
 着地しても、どこか床からほんの少しだけ浮いている感じがする。無機質な機械が並べられた部屋にルイはいた。地面には粉々に砕けた硝子の破片が散乱している。水浸しだった。
「私は……誰」
 前方に、困惑した顔を浮かべた男が立っていた。乱暴に床を踏みならし、近付いてくる。黒い髪も眼鏡も白衣も何もかもが濡れていた。頬に男の手が触れて、ぎゅっと抱き締められる。
 途端、赤い光がすっと消えた。代わりに鋭い痛みが石のある場所を刺す。心臓が痛い。胸が痛い。うずくまろうとするルイの体を抱きすくめて男はじっと立っている。ルイは離れようと男を突き飛ばした。鮮やかな緑の光が目を灼く。ルイは思わず尻餅をついた。体に上手く力が入らない。
「見えるか、これが」
 男が左袖をまくる。手首には緑色を湛える石が埋まっていた。その石から光が零れ部屋を染めていく。ルイはその様をじっと見上げているしかできなかった。所在なく襟首を掴む。胸が痛い。荒い息を吐いた。痛くて痛くてたまらない。
 真後ろで声がした。やんわりと優しさを含ませた、けれど冷たい男の声だった。
(呼べ、私の名を)
 私は何も知らない。体が傾く。目を開けていられない。眠りに入るように、ルイは瞼の裏の暗闇に落ちていった。

menu / novels


nanoへのご支援
- ナノ -