とある日のこと
スーパーで、板状になったチョコレートを二枚買った。
世間はバレンタインデーだとか何とかで浮き足立っている。近所の小さなスーパーまでもが浮き足立っている。少しやり過ぎなのではないだろうか。そもそも、優姫としては、女子なら必ず参加しなければならないイベントのように扱われているのが納得いかない。別に、日本中のすべての女子に好きな人がいるわけでなし、無理矢理押しつけるのはいかがなものかと思う。しかし、デパートの地下で売られているような高級なチョコレートに憧れがないと言えば嘘になるのだが。
冷蔵庫に買った食材を収めながらも、ぐるぐると考える。友人も、彼氏に手作りのお菓子をあげるんだ、などと言いながらレシピ本を眺めていた。優姫には縁遠い話だ。優姫がお菓子を作ろうとすれば、きっと、チョコレートが固まらないというありがちなミスのみならず、何か小麦粉的なものが黒こげになったり爆発したりするに違いない。恐ろしい。そういえば、クッキーを作ってみたら何故か膨らんでいたことがある。不思議だ。
せっかく食べるなら美味しいものを食べたい。優姫は手を止め、カウンター越しにリビングを見た。ソファーに座って大野がテレビを観ている。穏やかな夕方、テレビ番組では、まさしく渦中の「バレンタイン」で盛り上がるデパートを中継していた。快活な雰囲気の女性が様々なチョコレートを試食している。美味しそうだった。高いのだろう、きっと。再び食材を冷蔵庫に片付けがら優姫は少し落ち込む。片付け終わると、ぱたん、と冷蔵庫を閉めた。振り向けば、コンロの側に板チョコが二枚、置かれている。
「ねえ」
不意に横から声が聞こえた。言葉にならない声を上げて優姫は驚く。動いた拍子に体のどこかをぶつけたらしく、冷蔵庫のドアが勢いよく開いた。後頭部を強かに打つ。優姫は後頭部をさすりながら俯く。一体何をしているのだろう。背中が少し冷える。
「大丈夫?」優姫の体越しにドアを閉めながら大野が顔を覗き込んでくる。優姫はこくこくと頷く。少し恥ずかしい。
「ところで、ヒメ」わずかに声を低くして大野が言う。優姫は一体何だとばかりに顔を上げた。真面目な顔をした大野と目が合う。デパートの中継はまだ続いているらしい。
「チョコレートが欲しい、です」真面目な顔で、彼は言う。あくまでも真面目な表情だ。
優姫は放置されていたチョコレートをそっと取った。滑らかな動作で、一寸の迷いもなく、それを大野に渡す。逆にぎこちない動作で、大野がチョコレートを受け取る。手の中のチョコレートを見た彼はたちまち困ったような表情になる。
「ええと、これは」
「チョコレート。良かった、買ってきてて」
言いながら、優姫は軽くなったビニール袋をくるくるとまとめる。彼の言う「チョコレート」が何を指しているかぐらいわかっているが、しおらしくチョコレートを渡すというのは柄ではない。優姫が作るより大野が作る方が美味しいお菓子に出来上がることは明白なのだから、むしろ貰いたいぐらいだ。優姫は一人で思う。
「何か作ってくれないの?」
さすがの大野も不満げだった。悪いことをしたかな、と思わないでもない。それでも、世間が騒ぎ立てるようにチョコレートを渡すというのには抵抗がある。優姫はうーんと唸った。
「チョコが固まらなかったり、何か別の食べ物になったとしても食べてくれるなら考えるけど」脅しみたいだと自分で言いながら思う。
大野は手元のチョコレートを見ながら黙った。不意に、さらさらの黒髪をぐしゃぐしゃにしてやりたくなる。どうせ優姫があげなくても知り合いの人に義理でも何でもとにかくお菓子を貰うのだろう、なんて可愛くないことも考えてしまう。素直に告白する日に向けて、逆にどんどん素直でなくなっていく自分が悲しい。
大野がふっと溜息と思しき息を吐いた。悲しそうな顔をしている。優姫からチョコレートが貰えないことが悲しいのか、それとも甘いものが食べられないことが悲しいのか。後者のような気がしてならない。それくらい、甘いものというのは彼の中で大きな割合を占めている、と思う。
「私と甘いものとどっちが好きなの」そんなことを考えていたせいか、気が付くととんでもないことを口にしていた。
何を言っているんだ自分は、と思っても口にした言葉を取り消すことは出来ない。えーいっとばかりに優姫は開き直ることにした。顔を上げた大野と改めて目を合わせてみる。大野は困惑したような顔をしていた。それはそうだ、自分だってこのような類の質問をされたら困るに決まっている。それでも言ってしまったのだから仕方がない。それに、これははっきりさせておいた方がいいことのような気がする。
「それは好きの種類が違うと思うんだけど」大野が困ったような表情で言う。少し可愛く見えるのが悔しい。
「違わないよ、大野の中では一緒だよきっと」優姫は間髪入れずに返す。やはり大野は困ったような顔をしている。
「そうかな」呟くように彼は言う。まるで自分に問いかけるかのようだった。
「そうだよ。そうじゃなかったら、私のプリンを勝手に食べるはずがない!」
優姫は言い切った。先日、冷蔵庫に入れておいたプリンを勝手に食べられたのだ。優姫が悲しむとかそういったことよりも甘いものへの執着や食欲が勝った結果だ。そうするとむしろ、優姫は甘いものに負けているのかもしれない。悲しくなんて、ない。その件に関しては発覚した際に謝って貰ったのだし、プリンはまた買えばいいだけの話だ。わかってはいる。
あのときはさすがに、大野も優姫の態度から「良くないことをした」と思ったようだった。困惑の表情が、申し訳なさそうな表情になる。
「……それはごめん」しずしずと彼は謝る。謝って貰っても食べられたプリンは帰ってこない。
「楽しみにしてたのに」優姫は大野から視線を逸らした。意味もなくコンロの方を見つめる。今日あのプリンを買ってくれば良かったなんて思う。甘いものが食べたい。
「わかった。じゃあ、チョコはいらないから、好きって言ってくれる?」
「え?」思わず間抜けな声が出た。一瞬会話の流れが理解出来なかった。プリンにすっかり意識が引きずられていたが、そういえばチョコレートの話をしていたのだった。優姫は、言葉になりきれなかった声を吐き出す。「あ」とか「え」とか「う」とかだった。噫、みっともない。
いやそれよりも、彼は今何て言った?
「これが答えだよ」と柔らかに彼は言う。そしてふわりと笑った。
end.