「あ」「い」

 どうしよう。開かない。どうしよう。どんどんトーストが冷えていく。ジャムの瓶はなかなか開かなかった。朝からかなりの強敵に遭遇している。このまま頑張ってうっかり手を滑らせでもしたら目も当てられない。ああでも、今朝はマーマレードが食べたい気分なのに。苺ジャムにしたらもやもやした朝食に決まっている。決まっている、のに、瓶は上手く開いてくれない。噫、どうして。手が痛い。

 爽やかなはずの朝八時、優姫は困っていた。たかだかこれくらいのことで、珍しく起きてこない大野を起こすのは気が引ける。それくらいの礼儀というか遠慮は持っているつもりだ。彼はいつも早起きなので、たまには寝坊するのもいいと思う。授業は昼からなので余計にそう思う。だが、瓶は開かない。

 もー、と優姫は瓶をテーブルに置いた。開く気がしない。きっと優姫には開かない仕組みになっているのだ。そうに違いない。若干のもやもやした気持ちを抱えながら優姫は苺ジャムを取ろうと席を立った。苺ジャムは嫌いではない。ただ今朝の気分ではなかっただけだ。それよりも冷めたトーストの方が嫌だった。

 台所へ向かおうとした矢先、見計らったかのように大野が起きてきた。ぱちり、と目が合う。優姫は挨拶もそこそこに瓶を手に取った。助かった。

 おはようと言いながらも眠そうな大野に、瓶を突きつける。「開けてくれる?」

 大野は目をぱちくりさせた。いささか不思議そうに瓶を受け取る。髪に少し寝癖がついていた。ぴょんと毛先が跳ねた様は子どものようで少しだけ可愛い。寝起きの彼は隙が多くて面白いと最近とみに思う。

 ぱかん、と瓶の蓋が開く。あれだけ優姫が挑んでも無理だった蓋がそんないとも簡単に開くものなのか。やはり優姫には開けられないような仕組みになっていたに違いない。

「ありがとー」

 思わず顔が綻ぶ。これで美味しく楽しく朝食を食べることが出来る。優姫が困っているときに現れてくれるなんて、まるでヒーローみたいだなあと嬉しくなった。


 ***


「別に起こしてよかったのに」どうせ起きなきゃいけない時間なんだから、と大野は苺ジャムをトーストに塗りながら言った。

 穏やかな朝食。朝の情報番組を観ながらぼんやりする朝食。授業が昼からというのは素晴らしい。ついでに言えば、もう少し学校が家に近いと嬉しいのだが。

 優姫はトーストをもぐもぐと咀嚼して、牛乳を飲んで、それから改めて彼の方を見遣った。服は着替えたものの、未だに髪は寝癖のついたままだ。少し面白い。いや、学校を始めとする普段の場における彼の姿を考えればかなり面白い。優姫は思わず、くすっと笑った。

「なに?」彼が口をもぐもぐ動かす。
 はっとして、優姫は慌てて視線を逸らした。「ううん、何でもない」トーストをかじる。

「何で笑ったの」

 不機嫌さをほんの少しだけ滲ませた声で彼が問う。優姫はマーマレードの味を噛み締めながら、やはり笑うに留めた。大野は拗ねたような表情をして牛乳を飲む。当たり前のように同じ食卓を囲んでいる。同じようなものを食べているのだった。存外、彼との付き合いも長くなったなあなどと感慨に耽ってみる。

「ヒメ」打って変わってふわりと柔らかな声で彼が言う。「口にジャムついてるよ」

 え、と指で口の端を拭う。指にわずかについたオレンジの皮を舐め取る。甘くて、微かに苦い。

 今度は大野がふっと笑った。「可愛いね」

 うっかり面食らった。一気に顔が熱くなる。わたわたして、もう牛乳の入っていないコップを触ってみたり引き寄せてみたりする。言われ慣れていない言葉は、本当に困る。それも、服装や髪型を変えたことに対する「可愛い」とはまた違う種類の言葉だとわかってしまうから尚のこと恥ずかしい。

 何か言わなければと、言葉を何とか絞り出す。

「大野だって、寝癖ついてる、よ」

 我ながら意味不明だ。何故こんなことを言ってしまったのか。お互い様、とは少し違う気がする。混乱している。ぐるぐる。

「何それ」けらけらと大野が笑う。「それとヒメの可愛さは関係ないと思うんだけど」

 優姫の予想の斜め上を行く言葉に何も言えなくなる。敵わない。寝癖がついていて可愛いなんて、優姫にはとても言えない。面白いとは言えそうだが、言われてもあまりいい気はしないと思う。優姫は黙るしかなかった。


*拍手のお礼でした。
実は、「開かない」と「苺ジャム」というタイトルがついていました。

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