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セシリア達ははっとして顔を見合わせた。それから影を見遣れば、それはにたりと笑ったように見えた。顔はないのだから実際はわからないが、真っ黒に塗り潰された何かが嘲笑するように身じろぎしたかに思えた。一気に陰が増幅する。
セシリアは慌てて手近な左方の金網に駆け寄った。にわかに騒々しくなった地上を窺う。隣がアパートという場所の関係上、このアパートの面している道路をしっかり見ることは出来ないが、何かがあったのは確かなようだ。警官が騒いでいる。「誰か」「早く」と、途切れ途切れの声が耳に届く。
ニールが傍に駆け寄ってくる。同じように地上を覗き込んだが、やはりあまり見えないようだった。
「あいつを何とかしないと」セシリアはすっかり体が冷えているのを感じた。「じゃないと、大変なことになる」
彼は影に向き直ると「正義感だけじゃ食っていけないんだよなあ」と大げさに溜息を吐いた。
「わかってる」
絞り出した言葉は弱々しく、頼りない。正義のためだけに動く人間なんて、想像や妄想の世界にしかいない。それくらいセシリアだってわかっているし、本来セシリアは正義感を振りかざしてどうこうしようとする人間ではない。だが、影を見て、悲鳴を聞いてしまったのだ。このまま見て見ぬ振りが出来るほどセシリアは冷酷になれない。だが、残念ながら、セシリアは影に立ち向かって行けるような力を持っているわけではなかった。
ニールが金網から離れる。風が彼の赤い髪をなびかせる。彼はゆっくりと影に向かって歩く。影が身じろぎした。どっと影が膨らむ。ニールを近付かせまいと威嚇している。それでも彼はお構いなしに影へ近付く。辺りの空気が張り詰めていくのがわかる。
こういうとき、彼は別人のようになる。先程までの酔態も普段のだらしなさも微塵に感じさせない様子で、彼が左手を振り上げる。
影はあまり動かない。食べ過ぎで体が重たいのか、ずるずると黒い衣を引きずって後退する。背後の金網へ少しずつ追い込まれていく。きしり、と音がする。ぎしぎしと苦しげな音を立てて金網が歪んでいく。どちらかというと、弱者が悪人に追いつめられたかのような場面だ。
「さっさと終わらせるか」眠いしな、と彼は軽い口調で告げる。
セシリアも少しだけ彼らに近付いた。彼が呪文を口にするのが聞こえる。足下を、陰を含んだ風がするすると流れていく。セシリアはなびく髪になんとはなしに触れた。
金網が悲鳴を上げた瞬間、青白い光が閃いた。影の足下から青白い光の筋がいくつも溢れて、影を捕まえようとする。影がもがく。金網が歪む。乱暴な音がする。魔法から逃れようとした影が後ろに傾いていく。影が見えなくなる。遠くで、がらん、と音がした。
寸分遅れて女性の悲鳴が響く。一気に辺りが明るくなる。霧が晴れて陰がなくなる。セシリアは慌ててニールの傍に駆け寄った。影がいた場所には焼け焦げた跡があった。
金網はすっかりなくなっている。セシリアは恐る恐る下を覗きこんだ。ひしゃげた金網と、さして大きくはない灰色の何かが地面に転がっている。その灰色の何かからは赤い液体が流れ出ている。遠くではっきりとはわからないが、それは動物に見えた。恐らくあれが影の本体だったのだろう。セシリアには、どうしてこんなことになったのかを知る術はない。
一体何が起きたのかと人が集まってくる。セシリアはさっと身を引いた。不審者に思われたくない。厄介事に巻き込まれるのは御免だった。ニールはといえば、呆然とした様子で地上を見下ろしている。
「大丈夫?」不審なので声をかけてみた。
「え、あ、いや、別に何でもない」
ニールは歯切れの悪い、あからさまに不自然な返事を寄越す。別に、魔物を取り逃したとか動物があんなことになったとか、そういったことで落ち込むような男ではないと思うのだが、様子が変だった。だが、知り合ってからそんなに日が経つわけでもないし、彼のことを深く知ったところで利益があるわけでもないし、とセシリアは無関心を決め込んだ。
後のことは警察が上手く処理してくれるだろう。この国の警察はそれなりに優秀だ。いつまでもここにいてもどうしようもないので、セシリアはさっさと部屋へ戻ることにした。それでも、胸の辺りがもやもやしている。やはり運勢が最下位なだけはある。セシリアは、ふ、と溜息を吐いた。
続