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 アルコールが残っているのか彼は躊躇いなく進んでいく。少し楽しそうに見えるのは気のせいか。セシリアもゆっくりと彼に倣ったが、あまり気分のいいものではなかった。この世の中に、よくわからない気味の悪い化け物と対峙しようなどと積極的に思う女の子がどれほどいるだろう。

 扉をくぐると、やはり生温い空気にさらされた。寒気を堪えて周囲を見れば、周りの外灯でうっすらと照らされる中で黒い影が蠢いているのが見えた。転落防止の金網の側に、黒い影がうずくまっている。黒い影が獲物を狙う獣のような目つきをしてこちらを見た、気がする。なんだか輪郭がぼんやりとしていてよく見えない。

「誰かが呼んでいる気がするらしいな」一体誰に対してなのか、唐突に彼が話し始めた。「誰かが呼んでいる気がする、だから振り向く。だから、引かれるように飛び出してしまうんだと」

 まあ、俺にはわからないが、と言いながらニールが影に近付く。それこそ「引かれるように」。影は、猫が毛を逆立てて威嚇するかの如き体勢をしたように見えた。「陰」がゆるゆると広がっていく。影から陰が霧のように零れて、溢れていく。

 窓の外の影も、扉の向こうに見えた霧も、全てはここに集約されるのだろう。悪寒がする。思わず吐きたくなる程の「よくないもの」がそこにいる。噫、また自分は変なものを見ている、とセシリアは感じた。本当に、この眼(まなこ)は余計なものばかり見出している気がしてならない。

 思わず、セシリアはニールの上着を掴んでいた。「近付いたら駄目」

 ぎゅっとセシリアが引き留めたため、彼がすこぶる機嫌の悪い声で聞き返してきた。

「呑まれて、引きずられる」セシリアは影から視線を逸らさなかった。「あれは、よくない」

 寒気がする。気味が悪い。気持ちが悪い。セシリアの様子にニールは何か違和感を感じたらしい。口調を和らげて訊いてきた。

「お前には、何が見えてる?」
「人のような、動物みたいな、こう、黒くて、よくわからない」

 言葉が震える。影はますます輪郭がぼやけて、一層陰を広げていた。そして、引かれるように黒色が辺りから集まってくる。よくわからない引力が働いて、周りのものが引き寄せられている。

「黒い?」興味深げな声をニールが出した。「俺には、灰色の薄汚れた獣が見えてるだけだけど」

 セシリアはほとんど彼の後ろに隠れるようにした。「じゃあ、本当はそういう姿なんだと思う。でも、私にはそう見えない」

 恥も外聞もなく、セシリアはぎゅうっとニールにしがみついた。そこで初めて、喧噪を間近に聞いた。誰かに助けを求める声、野次馬を規制する声、それから事故について話す声。意識していなかったざわめきが一気に耳へ流れ込んでくる。

「おい、大丈夫か」ニールが振り向き様にセシリアの頭を撫でた。

「呼んでる」セシリアはどうして陰が広がっていくのか理解した気がした。「呼ばれて、集まってる」

 だから、事故が重なる。事故が増えて、犠牲者が増えて、事故について語られる全てを、影が吸収する。そして影は大きくなる。陰が広がって引きずられる範囲が広くなる。そうこうしている間に犠牲者は増えていく。

「何が」ぶっきらぼうに短くニールが問う。
「なんていうか、人の魂とか心とか」そこで一度言葉を切っ「それから、よくないもの」と半ば放心に近い状態でセシリアは答えた。上手く言えない。

「あれは、魔物じゃないのか」捕まえたら金が貰えるのかと思ったのに、と残念そうに彼は付け加えた。
「前はそういう存在だったのかもしれないけど、今は違う」

 魔物だったら、捕まえたり倒したりすれば警察やその他の公共機関から報奨金が出る可能性がある。しかし、あれはもう魔物ではない。何かわからない存在と化している。あれ自身、自分が一体何なのかわかっていないに違いない。それでも尚、本能のままに求め続けているのだ。その上、その求めに応えるように人の声は大きくなり言葉が溢れ返っている。

 陰がふわりと膨れて闇を為し、夜に溶けていく。一瞬だけ、辺りが静かになる。そうして静寂が訪れた直後、鋭い悲鳴が響いた。悲鳴の中、自動車の出すような騒音と、何かがぶつかるような鈍い音も聞こえた。

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