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 床に手を突いて彼が馬乗りになっている。赤色の髪は玄関の照明を跳ね返し、まるで夕日のような色に見えた。痛みを堪えて彼の顔を見れば、理由はわからないが目が据わっていた。暗い茶色の目がじっと見返してくる。ぞくりと寒気がした。

「別に、野次馬根性を発揮したところでどうしようもないだろう」

 酔いが醒めたことのわかる、少し乱暴な物言いをニールがする。開き直ったのかもしれない。外では、ざわめきと共にパトカーだか救急車だかのサイレンが鳴り響いている。

 何言って、と言いかけたところで声が出なくなる。ぎょっとした。彼越しに見える天井を黒い影が走っていったのだ。橙色に照らされた天井を、右から左へ大きな黒い影が通り過ぎていったように見えた。悲鳴を上げようにも、声が上手く出なかった。言葉にならない。寒気が、した。

「外か」顔を上げた彼が奥の方へ視線を向けた。

 もぞもぞと彼の下から這い出し、セシリアも奥を見た。扉は開け放たれ、二つの部屋は奥のベランダまで一直線に見通せるようになっている。

 その窓に、黒い影が張り付いていた。今度こそ小さく悲鳴を零す。人の如き形をした影がべったりと窓に張り付いている、ように見える。地面から壁を這い上がってきた感じだ。それは外からの明かりで朧気に照らし出され、こちらを見ているようだった。何だ、あれは。背筋が凍る。見ていると目が合う気がして、セシリアは慌てて目を逸らした。

 床に座り込んでいると、いきなり寝間着の後ろを引っ張られた。「何だあれは」とどこか不機嫌そうに彼が訊いてくる。セシリアは曖昧に返事をするだけだった。

 窓が少しずつゆっくりと黒く染まっていく。まるで絵の具を塗ったかのように黒くなっていく。べったりとした黒色は光を遮り、部屋が静寂に包まれていく。部屋が橙色に落ち着いていく。人影も同化して見えなくなる。

 寒い。怖い。痛い。お腹の底のような、体の奥の方がひりひりしている。セシリアは一瞬上手く息が出来なくなったような気さえした。見てはいけないものを見てしまった恐怖感が全身をぐるりと覆っている。気持ちが悪い。

 外、と頭上から小さな声が落ちてくる。顔を上げれば、ニールは玄関へ向かっていた。さっきまでの酔態はどこへやら、しっかりした様子で彼は外を窺う。彼の着ているシャツの裾がふわりと膨れる。

 今度は彼が「な」と間抜けな声を上げた。「さっきの」

 生温い風に寒気がする。彼が驚いているのを見て、一体何事かと、セシリアも彼の傍から外を覗き込んだ。

 まるで黒い霧のようだった。本来なら多少は開けているはずなのに、何もかもが霞んでよく見えない。黒い粒子が砂塵よろしく宙に舞っている。影がこの建物全体を覆っているのかもしれない。何これ、とセシリアは知らず呟いていた。

 セシリアは何となくニールの横顔を窺ってみた。彼はしっかりと真剣な表情をしていた。不思議なことに、こうしていると二枚目に見える。セシリアは現実から目を背けたくなるのをぐっと堪えた。

「よし、見に行こう」先程の言動をすっかり忘れた様子で彼が言う。

 セシリアとしては部屋に引きこもっていたかったのだが、ドアノブを掴んだままだったニールがえいっと扉を開け放ってしまった。は、とか、えっ、とか言っている間に、半ば強引に連れ出されてしまう。背後で律儀にも鍵のかかる音がした。あれ、一体どういうことだ。

 ニールが脱げかけた靴を履き直す。セシリアは改めて自分の姿を見下ろしてみた。いくら夜中でも寝間着のまま外に出るのは乙女として抵抗がある。しかし、鍵を持っていないのだからどうしようもない。ひとまず、適当に引っかけただけだった靴を履き直してみた。あれ、自分は一体何をしているのだろう。運勢が最下位な一日はまだ続くのか。もう日付が変わっているはずだが。

 ニールが共用廊下から身を乗り出すようにした。「さっきのあれ、どこに行くと思う?」

 生温い風を感じる。幸いにも霧が肌に触れているような感じはしない。一応同じく身を乗り出すようにして外を窺ったが、霞んでよく見えなかった。辺りは事件の現場から少し離れているらしく比較的静かだ。それにしても、最近事故が多い。事故に事故が重なるようにして起きることもしばしばだ。

「上、かな」ぼんやり下を眺めながら直感で答えた。

 さっきのあれは、降りているというよりは登っているように見えた、という程度の考えである。大して根拠のない、適当なもの。変に期待されても困るため、セシリアはそれ以上口にはしなかった。ただ、上に行きたくなかった。事故とそれにまつわる騒ぎが気になってはいたが、別にあの黒い影を追いたいとは思ってはいない。

 セシリアの反応をどう思ったのか、ニールは曖昧に「ふうん」と言うだけだった。否定も肯定もせず、その体は階段へと向かう。他を顧みないその後ろ姿をセシリアは静かに追いかけた。鍵を持っていないため、ついていくしかなかった。

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