ふわり、問う

 大野、お玉取ってと声をかけて、お玉を受け取った後のことだった。お玉で白菜やら肉やらを掬って皿に取る。お玉を向こうに返す。白菜を箸でつかむ。その流れの中で、鍋の向こう側の大野が全く脈絡のないことを問いかけてきた。

「ねえ、俺の名前知ってる?」

 それはまるで、ご飯美味しい? と尋ねるかのようで、脈絡が行方不明の割に流れが滑らかだったために優姫は寸分きょとんとした。口に運ぼうとしていた白菜を空中に漂わせたまま瞬きをする。さっきも「大野」と呼んだのに、何を今更。何故、今そんなことを訊くのだろうかと彼の方を窺ってみる。彼はよくわからないけれど伏し目がちに鶏団子を頬張っていた。

「ヒメ、どうしたの?」

 白菜食べないの、と彼は何事もないかのように言う。ただ何となく訊いてみただけなのかもしれない。そうだ、深い意味はなかったのだろう。そう結論付けて、曖昧な返事をしながら優姫は白菜を口に運んだ。息を吐きながら熱い白菜を食べる。鍋はいい。美味しい。

 ふ、と息を吐いたときに大野と目が合った。噫、彼の眼鏡が曇っていたら良かったのに。わずかな気まずさを感じずにはいられない。別に質問に答えてもいいのだけれど、少し気恥ずかしいものがないわけではなかった。彼は何も言わない。うっすら笑っているだけだ。少し怖いかもしれない。楽しい夕飯のはずなのに、様々な言葉が優姫の中にぐるぐると渦巻いている。

 いつも名字で呼んでいる人を、下の名前で呼ぶのは少し恥ずかしいし勇気がいる、気がする。

「名前知ってるよ」明るい声を心がける。皿の中身に目を移すようにして視線を下げる。「こうでしょ? 皐、って書いて、こう」

 平静を装って鶏肉を頬張る。頬が熱いのはきっと気のせいに違いない。鶏肉の味はよくわからなかった。

「そっか、そうだよね」言い聞かせるかのように大野が言う。
「そうだよ。高校も一緒だったのに知らないわけがないじゃない」優姫はこくこくと頷いた。

「でも、初めは大野くんって呼ばれてた気がするんだけど」

 彼の口調がどこか咎めるように聞こえるのは何故だろう。別に優姫が大野のことを呼び捨てにすることに何の問題があるのだろうか。彼の友人もそうしているのだから、優姫が何か言われる理由はないはずだ。名字で呼んでもいいではないか、別に何の問題もないのだから。

 優姫は頑張って鶏肉を飲み込んだ。「それだけ仲がいいってことだよ」

「そうなの?」
 大野の言葉はどこまでも懐疑的だ。鍋が寂しくもぐつぐつと頑張っている。皿の中は空だけれど、彼は鍋に箸を伸ばそうとはしない。

「そうだよ。遠慮しなくてもいいってことなんだよ」多分、という言葉をぐっと飲み込む。

 実際そんな感じだ。深い意味なんてない。いつまでも「くん」で呼ぶのも他人行儀な気がするし、と思っているうちに気が付けば「大野」と呼び捨てするようになっていた。優姫自身はあまり気にかけていなかったのだが、彼は気にしていたのだろうか。むしろ彼が優姫を「ヒメ」と呼ぶ方がよっぽど気になるのだが。

 ふうん、と大野は気のない返事をしただけだった。あまり納得していない感じである。手に取るように、とまではさすがにいかないが、ある程度相手の顔色の窺うことは出来るようになったと思う。成長している。

「名前で呼んだ方がいい?」箸を片手に訊いてみた。別に呼びたくないわけではない。今まで何となくずるずる来てしまっただけである。

 大野は、お玉で鍋の中身をかき回しながら考える素振りを見せた。ぐるりと鍋を乱したお玉で、具の塊を掬い上げる。優姫はぼんやりと湯気を眺めていた。そろそろ具材を足さないといけないような気がする。

「いや、好きなように呼んでいいよ」大野はお玉を片手にふわりと笑んだ。名前を忘れられてたわけじゃなかったし、と付け加える。

 そうか。それでいいのか。さすがにいい加減彼のこともわかってきたと思うのだが、まだまだ読めないところがある。優姫は箸を置いた。

「じゃあ、大野、お玉取ってくれる?」

 うん、と頷く彼からお玉を受け取る。具の少なくなった鍋をかき回してみる。今更名前なんて変えたところで関係が変わるわけでなし、恥ずかしいだけだ、多分。大野が優姫の名前を呼ぶときの嬉しさを思い出しながら、だから、ここぞというときのために取って置こうと優姫は考えた。

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