きっかけ

 それは、「夕飯どうしよう」と考えるのとは全く違う思考なのだと改めて思った。どうしようどうしようどうしよう。手の中の紙切れに目を落とす。金券のような形状のそれは、友人が優姫にくれたきっかけだった。悩む優姫に、友人が半ば押しつけるようにくれたのだ。

 たった一枚の紙切れ。何の変哲もない割引券。それでも話を切り出すのには勇気がいる。恐らく、いつもだったらこんなには悩まない。簡単に誘える。そうだ、何でもない振りをして、そう思い込んで、何気なく誘ってしまえばそれだけのこと。意識しなければいいのだ。それが出来れば苦労はしないのだが。

 大野はお風呂を洗っていた。何気ない風を装って、優姫は洗面所に入った。洗面台に手を突きながら、浴室へ声を投げる。俯く。落ち着かない。どきどき、する。

「どうしたの?」

 コックをひねる音が聞こえる。水が流れる音が声を奪う。優姫は意を決した。もう声をかけてしまったのだ。

「れ、連休、空いてる?」

 噫もういっそこの割引券を破いてしまいたい。わけのわからない衝動に駆られる。喉の奥がじりじりと痛い。

「三日と四日はバイトかな」優姫の気持ちは露知らず、暢気な言葉が返ってくる。

 五月初頭の連休。あいにく学校は都合よく連休にはしてくれない。優姫はカレンダーを思い浮かべた。ちょうど五日が空いているのか。レポートは大丈夫だ、頑張る。

 柄にもないことを言おうとしている。ふ、と息を吐いて、「友達にね、食べ放題の割引券貰ったんだけど、ケーキとかお菓子とかが多いみたいで、だから」

 シャワーの音が消える。もう言ってしまうしかない。

「行かない? 一緒に」

 言った。言い切った。心臓が口から出そう、というのはこういう状況なのか。優姫はついぞ顔を上げることが出来なかった。顔が熱い。今ここで、水を浴びて冷静になった方がいいのではないか。わけのわからない衝動に駆られそうになっている。たったこれだけのことなのに。

「うん」

 ふわりと柔らかい返事が耳に届く。熱くなった耳がくすぐったい。がたがたと響く雑音が優姫を宥める。やはり水でも被った方がいいのかもしれない。ああでも良かった、嬉しい。

「俺もどこか行きたいなって思ってて」

 ひたりと足音がする。嬉しい、なんて彼は言う。恥ずかしさのあまり優姫は洗面台に突っ伏した。時期が悪いんだ、時期が。この時期ではなかったらこんなに悩まないのに。去年、自分は一体何をしていたのだろう。忘れていたのかもしれない。そのことすらも忘れている。

 元々、恋人だからと何か熱心にする方ではない。最近は心がけるようにしているのだ。これでも一応。世の中の恋人達は大変だ、と思わないこともないが。

 足音が背後を横切る。その静かな足音の合間に「デートだね」と彼が言ったことに、優姫は更に恥ずかしくなった。まだどきどきしていた。


end.

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