視線、そらして
目の前には非日常が広がっている。これを非日常的だと言わずに何と言う。優姫は自分の語彙不足を嘆きながら目の前に確かに存在する異常事態に目を向けた。
「あの」と何故だか口調がよそよそしくなる。非日常を前にして頭が混乱しているのだろう。きっとそうに違いない。
「そんな格好で恋人だとか主張されても困るのですが」
言い切った。向かいに座る男はきょとんとしている。綺麗な黒髪が揺れる。そしてゆるゆると胸まで落ちた。黒髪は緩く波打っていて目の前の人物を清楚に見せる。さっきから散々注目を浴びていた。異常だから仕方がない。異常事態を前に、人は皆好奇心をもってその出来事を眺めるのだ。まるで動物園で動物を見るように。噫、混乱している。本当はそんな事態ではないことぐらいわかっている。でも受け入れたくない。何だか嫌だった。
文化祭は恐ろしい。優姫はそっと溜息をついた。彼は相も変わらずきょとんとしている。いったいどこでそうなったのか、レースやらフリルやらのついた可愛いカチューシャまでしているのだから驚きだ。そう、非日常だ。少し怖い。その一方で、いつものように大野がプリンを食べているのだから何だかおかしかった。昨日コンビニでプリンを買って食べていたのに今日も食べるのか、と少し呆れてもみる。
「他人のふりをしたい」ぽつりと呟いてみた。無理だ。どう考えても無理だ。相席して会話をしている時点で不可能だ。
「……ヒメ、俺だって好きでこんなことをしてるわけじゃないんだよ」
わかっている。文化祭だもの仕方がない。わかっているのだが、やはり目の前にすると動揺を隠せない。彼は、随所にレースが使われている黒を基調としたシャツに、赤いチェックのスカートを着用していた。さすがにコートは自前のモスグリーンのやつだったが、それにしてもめまいがするようなファッションだ。可愛いけれど、自分は絶対に着ない。多分、大野の趣味でもない。文化祭って恐ろしいな。優姫はしみじみと思った。
「えっと、お友達の手伝いでしょ? ちゃんとわかってるよ」取り繕うように言ってみた。
そう、せっかくなので遊びに行ってみれば、大野は面白いことになっていた。可愛いけれど、どう見てもおかしい。そして注目を集めている。休憩時間にまで注目を集めるなんて大変だなあ、などと優姫は他人事のように思う。確かに、女装した男が平然と学食に居たら驚くかもしれない。優姫は出来るだけ冷静に考えてみた。
不意に呼ばれる。ざわめきの中で聞こえた声に視線を向ければ、ばっちり大野と目が合った。一応化粧もして可愛らしく変貌を遂げている大野に改めて戸惑う。目の前の男が自分よりも可愛かったら複雑な気持ちにもなる。大野が、遠目から見て少しばかり背の高い女の子にしか見えないなんて複雑な気分だ。というかそうとしか見えないのではないか。自分はどうすればいいのかわからない。
「どうしたの?」
大野が不思議そうに心配そうにこちらを見ている。目を逸らす。テーブルの上を彷徨ったあとにまた目を合わせる。どうしようもなくてまた、逸らす。少し恥ずかしい。でもそれが、大野と目が合うから恥ずかしいのか、それとも目立つ大野と一緒であるから恥ずかしいのかわからなかった。今更混乱している。
何て言えばいいのだろう。よくわからない。ひとまず「うーん」とか何とか返してみた。視線は逸らしたまま、昼食の残骸の上を彷徨う。
「可愛いね、優姫ちゃん」
思わず顔を上げた。目が合う。え、と零れた優姫の言葉に大野は同じことを繰り返した。名前。ただそれだけのことなのに、何だかどうでもよくなってしまう。少し嬉しい。頬がふっと熱くなる。にこにこと笑う大野から、優姫は視線を逸らさずにはいられなかった。
end.