「なーにこんな所で一人酒なんてしみったれた事してんの、主」
「しみったれたって……酷いな」
汗をかいたグラスを両手に握った蒼月は、ひょいと曲がり角から現れた加州の言葉に苦笑を浮かべた。
夜の帳はもうとっくに落ちた。私室の電気は一切点けていない為、星空に浮かぶ月だけが唯一の光源であった。本来の暦であれば浮かんでいる筈がない満月は、此方に戻ってきた時に彼女がこっそりと四季の移ろいに任せた者から十五夜の趣へと切り替えた為にそこに鎮座している。月をつまみに酒を流したい気分だってある。それがたまたま、今日であったというだけだ。
一度は遠のいた筈の喧騒が戻って来る。加州の居たよ、という言葉を皮切りに思い思いの寝間着に身を包んだ陸奥守、蜂須賀、山姥切、歌仙――即ち始まりの五振がこれまた思い思いの酒とつまみを手にして静かな中秋の名月の特等席へとやって来たのである。どうして、と拒む素振りさえないが疑問は口にする蒼月に、彼女の初期刀として選ばれた月と同じ色の髪を持つ青年が小さく笑う。
「あんたの就任日祝いに、初期刀で一杯やるというのも悪くないかと思ってな」
「それに俺達は乗ったという訳さ。本当ならば夜更かしもこんな時間に酒も駄目と言いたい所なんだけど」
「今日は記念日だ。大目に見よう」
主の就任五年目の記念日に、始まりの五振で酒の酌み交わしっちゅうのもええもんじゃろ?と快活に笑った陸奥守の隣で今の笑うべきところ?突っ込むべき所?と加州が肩を竦めた。……程なくして、笑い声が響き笑る。
彼らが繰り返す通り、9月2日は審神者蒼月の就任日であった。五回目を迎えるこの日は例年通り宴会の席だけを設けて他は通常業務――の筈だったのだが、5という区切りが良い数字だからか政府側から使者……という体で何時もより幾分か身なりを良くした担当官の藜が訪れた事から予定は全て狂った。何時もどおり楽にしていいと言っても聞いてくれず、隣に政府直属の黒い管狐を伴った彼は畏まった口調、動作で祝いの言葉を読み上げて記念品一式を差し出したのであった。隣に黒い管狐――通称くろのすけが居た事から強いる事も出来ず、結局此方も相応しい格好と場所でそれを受けた為、短時間遠征に行くはずだった第二から第三は暇を弄ばせる事態となってしまったのだった。
賜ったのは雀の涙ほどの資材一式と新しい馬の式神、そして長い事戦い続け戦績を上げた審神者にへと贈呈される羽織であった。形状は活撃本丸の審神者が身に着けていたもの、と言えば分かり易いだろうか。ケープに近いそれは表地が着物で扱われる糸の内最高の物とされる白い絹で織られ、裏地は蒼月が好む縮緬で作られていた。また、裏地は柄物で彼女の審神者名を表すかのように蒼い空に浮かぶ雲と月が描かれている。更に羽織の前留め代わりにあしらわれた金属の飾りは、細いチェーンを繋ぎ留める金具の一つ一つが精巧であり、特に右の胸元に映えるようにと輝くのは豊臣の家紋として名高い五七の桐に丸に一つ紋を掛け合わせた蒼月本丸の家紋の金属細工であった。どれをとっても精巧に作らせたのが分かる一品は、今蒼月の肩に無造作に掛けられたままだ。これでは名品も形無しである。
「全く、折角担当官殿から貰った品を早速そんな風に使って。掛けるならちゃんと掛けないと皺になってしまうだろう」
「いやだって丁度良かったから……」
「全く、昼間の威厳はどこへやらといった体だね」
説教交じりに蒼月の背後に回って羽織を掛け直す歌仙を見ながら彼女と同じように縁側に腰掛けた蜂須賀がくつくつと喉で笑った。その動きに合わせて頬や肩に掛かった美しい長い髪を加州が指先を引っ掛けて払っていく。そんな様を見ながら山姥切と陸奥は持って来たグラスに酒を傾けていた。
「良かったわけ?折角の祝いの席なのに主役が離れちゃって」
「あれはもう私の祝いの席というよりただの騒がしい宴会だよ、加州。目的が横に置かれてる。まあいいけど」
と肩を竦めた蒼月は一拍置いて、そもそも祝うような事じゃないしね、就任記念。と続けた。言い換えれば5年も戦いが収束せずに続いている証明でもある。何気なく続けた彼女に首を振ったのは誰でもない山姥切であった。
「余り水を差すような事を言うもんじゃない。今日は、今日まで誰も欠ける事無く戦い続けられた祝いの席。そうだろ?」
「……そうだね。ごめん」
「そうそう。何感傷に浸ってるのか知らないけど、戦いが続いてるのは主のせいじゃ無いんだし。胸張ってればいーの」
薄らと黄金色に色付いたグラスを傾けながら加州が言う。中身は梅酒の水割りらしい。
そうだね、と続けて自分にも用意してくれた同じ梅酒、此方はソーダ割だがそれを口に付けて傾けた後に、蒼月はそういえば、と思い思いに手にしたグラスやら陶器を傾ける初期刀たちに目を向けた。
「うちの初期刀組って、どうしてか初期刀に選ばれてないのに初期刀みたいな性格になってるよね」
初期刀――つまりは始まりの五振りは、恐らく多くの本丸で重鎮に置かれる事が多い。
重用されている、という事である。審神者の右腕としての立場を持っていなくても、誰よりも長く人の子の姿を得て戦い続けた初期刀は何かと頼りにされ、責任ある立場に在る事が多い。特に最初期の本丸立ち上げ直後は人の身体に慣れる事、ノルマを熟す事、戦場を切り開く事、仲間を増やす事、本丸での生活に慣れる事……やることが余りにも多すぎる。そうなると初期刀夫々が自分が辿って来た来歴から来るコンプレックス等を引き摺っている場合ではないと早々に克服してしまう傾向が高い、と聞く。実際この本丸の初期刀である山姥切国広も、一度審神者と衝突を起こしたものの一年足らずで写しだ何だという事は殆ど無くなり本丸の総隊長、審神者の右腕として奔走していた。
だがしかし、他の四振はどうだろう。9振目として顕現した蜂須賀ならまだ分かるが、残りの三振は陸奥守が13番目、歌仙がぴったり20振目。加州に至っては初太刀である燭台切が顕現した後の23番目という初期刀の中で一番最後に顕現した刀だ。それなのに蒼月の記憶にある限り、加州の代名詞と言っても過言ではない「大事にしてね」や愛されているか否かというそれに因んだような言葉を聞いた試しがなかった。寧ろ初期刀に選ばれた加州清光のようにサバサバとしたしっかり者の一面の方が強く出ている気がする。他の面々に至ってもそうだ。蜂須賀は虎徹の真作として少なくとも表面的には認められない筈の兄である長曾根虎徹を、認めるまではいかないものの本丸の風紀を優先すると言い本丸内での諍い事は極力回避するという姿勢を見せた。これは陸奥守も同様であり、前の主関連で折り合いが悪い筈の新選組所縁の刀達と早々に膝を付き合わせ衝突を避けるように話を進めた。歌仙は隠れ人見知りは相変わらずだが、本丸の厨に常駐する者として皆を纏め上げているし、矢張り何だかんだ言いながら世話焼きになるという初期刀に選ばれた歌仙に見受けられる傾向がある。
どうしたって彼女にとって初期刀は特別な為、山姥切は特別扱いになってしまうがそれ以外の刀にはなるべく平等に接しようと心掛けているし、山姥切を特別視しているからと言って寵愛しているだとか物を買い与えているだとかそういう事もない。主の腹心で右腕で総隊長で……という立場的な話である。そしてそれは、この本丸で一番長く人の身を得て戦い続け主の傍に居続けた初期刀としての功績であり、皆もそれは認めているからこそ預かっている立ち位置でもあった。
話は逸れたが、特別扱いをした覚えがない弊本丸の始まりの五振がどうして初期刀に選ばれた個体のような性格になっているのか。首を捻る蒼月にそれはね、と小さく微笑みながら蜂須賀が視線を投げた先には初期刀が座していた。突然自分を除く全員から視線を向けられ、翡翠の瞳を丸くした彼は視線を彷徨わせた後に明後日の方向へと外して沈黙する。
「切国がね。俺達に頼んできたんだ。俺や乱が不在の間、もしも何かあったら主と皆を宜しく頼む、ってね」
「……切国が?」
きょとんとした顔で己を凝視する主に余計に居心地が悪くなったようで山姥切は身体を小さく揺すった。修行に出る前ならば直ぐに視線から逃れられる手段はあったが、今はそれは手元に無い。よって彼は蒼月のその視線と他四振の生暖かい視線を浴び続ける羽目になってしまう。
一度は途切れた会話を懐かしむように続けたのは加州だ。
「あれは確か、政府からの報酬か何かで三日月と小狐丸が来て暫く経った位だったかな?だよね、陸奥守」
「そうそう。やけに神妙な顔して切国が儂らの事を集めたんや」
その日は珍しく、山姥切が出陣編成に組まれていない日だった筈だ。
流石にもう三、四年前の事だ。恐らく日記を付けているであろう蜂須賀や歌仙のそれを拝借すれば当時何があったのか分かるかもしれないが、この話においてはどうでもいい事だ。大阪城地下探索が組まれていたのか、比較的低練度でもどうにかなる拡充が開催されていたのか、兎にも角にも午前中の出陣部隊の編成に組み込まれている者がとっくに出払っている時間帯に、彼は自分と同じく初期刀の座を拝する四振を集めたのだった。
『同じ初期刀のよしみとして、頼みがある』
そう、彼は切り出した。居住まいを正した姿に、此方も姿勢を正さねばと背筋が伸びたのを加州は覚えている。
初期刀として政府に選ばれた存在とはいえ、この本丸に顕現してから同じ本丸で戦う同士以外に彼らは大した接点を当時、持ってはいなかった。初期刀である切国は常に多忙であり、その次に顕現した蜂須賀もそれなりのペースで出陣をしていた。歌仙は当時から厨を預かっていて内番に顔を出す機会はそう多くなかったし、陸奥は陸奥で自分の興味がある分野に傾倒していた。加州は自分の身だしなみを整える道具を揃えながら先に顕現していた相棒の大和守や堀川の話を聞いて出陣機会が巡って来るのを待ちわびる、そんな生活だった。
『頼みとは何だい?初期刀殿直々にそう申し出るという事は、何か思う所でも?』
『頼みたいのは主の事だ。今は俺が不在の間は乱が居るが、この先の戦場は短刀脇差有利の夜戦もあるという。俺と乱、両方が本丸を開けるという事も十分在り得る。だからこそ、就任したての審神者の右腕になるだけの能力があると買われたお前たちに主を、頼みたい』
『主の事なら頼まれなくたって引き受けるよ。きっちり守ってみせるって』
『それもそうなんだが……』
歯切れが悪い山姥切に、有事の際に守るだけではなく、日頃から支えになって欲しい……というのが願いでいいのかな?と助け船を出したのは蜂須賀であった。ほっとしたように一息ついた山姥切は、小さく頷く。
『……ここも気付けば、随分と刀が増えた。主の仕事量も随分と増えているし、きな臭い担当官とやらも相手どらないといけない。その上あいつは出来る限り一振一振と向き合おうとするだろう?』
『そうじゃのう。現世に生きる人間らしからぬ将の才、とでも言うんがやろうか。随分精力的に動き回っちょる』
『……ああ。天性の才なのか何なのか知らないが、あいつには上に立ち纏め上げる才覚がある。立ち上げから1年と少しで備中の同業者に多少名前が通る程の運営を出来ているのもそのお陰だろう。……だからこそ、時折忘れそうになる』
『何をだい?』
……あいつは、まだ齢19の子供なんだ。
小さく、零れ落ちたようなその言葉に静寂が広がった。
『現世の法ならば、成人として認められる年齢にも至っていない。大人に守られてしかるべき子供なんだ。本来だったら現世の寺子屋で教育を受け、友と遊び語り合い、美味い飯を食べて血縁が居る家で眠り健やかな生活を送っている筈の、子供なんだ。……審神者としての適性があった故に、あるべき生活は全て無に還ったんだ、あいつは』
選択の余地は無かった。「はい」か「YES」しか、蒼月が選択できる回答は無かったのだ。
流血沙汰が当たり前、毎日報告書を提出し然るべき期間には習ってもいない収益計算をしてまた報告書を作って――本丸を管轄する最高責任者としての責任をその背中に背負って、彼女は刀達を束ねていた。望まなかった筈の生活に、弱音一つ吐く姿を見せる事無く。
何時しか切国は家族と会えなくて寂しくないのか、と聞いた事がある。あの時蒼月は、家族とは折り合いが悪いから平気だって、と笑っていたが、……それが空笑いだったのを見抜いていた。幾ら折り合いが悪かろうと、血の繋がった家族だ。一番安心するであろう帰るべき家にもほぼ帰れず、強制的に学校から本部に連行された事から別れの挨拶すら交わせずに、彼女は此処にいる。
『だからどうか、主の力になってやって欲しい。あいつが背負ってる重荷を、少しでも楽にできるように。……今の俺は、本丸内部まで正直手が回らない。乱が代わりにその辺りを支えてくれているが、短刀が出陣するようになったらそうもいかなくなる。……だから、今の内から頼みたい。どうか、主を助けてやってくれ』
自分たちよりもずっと練度が高く、幾度の戦を乗り越えてきた初期刀が自分たちに向かって頭を深々と下げている。
それは、彼らの胸に突き刺さる光景であったのだ。
「……私の知らない間にそんな事してたの、君」
「……何だ、悪いか。これでも色々アンタの事を気遣ってるんだ、俺は。それなのにアンタは自分の事にはとことん無頓着で平然と無茶をする。主の精神は鋼か何かか?」
「いやいや悪いなんて一言も言ってないよ。序に私は至って一般人だ。ただ人前で弱音を吐くのが苦手なだけで、これは別に特段審神者になったから出来た悪癖という訳じゃない」
弱音を吐いたからって神様は助けてくれないし、誰かが必ず手を差し伸べてくれる訳じゃない。蒼月は親と折り合いが悪かったから手を借りるのも癪だったし、だからって友人たちに弱音を零すのは同情を請うているようで嫌だった。つまるところ、弱音を吐いたってどうにもならないし結局自分で解決しないといけないなら吐くだけ時間と労力の無駄だ。彼女が滅多に弱音を吐かないのはそういう理由だった。
ましてや今は純粋に審神者を慕ってくれる短刀達にそんな姿を見せたら余計に心配を掛けるし、長谷部や巴を筆頭とした所謂審神者ガチ勢と呼ばれる面々の動揺やあらぬ方向への暴走が目に見えている。それが蒼月の無茶を余計に加速させる。……自分自身で咀嚼して呑み込めるだけの強さは持ち合わせていないから、これが悪癖なのは理解しているし溜め込むのは身体に毒なのもちゃんとわかっている。それでも弱音を吐きたがらないのは彼らを纏め上げる審神者としての小さな意地と見栄のような物だった。
だからこそ、切国の気遣いが身に染みた。それに応えようと自分たちが出来る事を精一杯、それが例え自分にとって受け入れる事が難しい命題だとしても受け入れようと知恵を回してくれたからこその今の四振の姿に心が打たれるのだ。じんわりと染み入るようなこの感覚は、感嘆か、それとも。
「一般人だなんて学生からの成り上がりの審神者にしては出来過ぎの部類の癖に良く言うよ」
「本職には叶わないさ。周囲の審神者が私を出来る審神者だと評価するのならば、それは私が刀達に恵まれたんだ。……嗚呼、本当に。普段は悪運が付いて回る癖して、私はここぞという時に本当に運に恵まれている」
悪運の星がついて回るのか、それとも極稀に奇跡を起こす強運がついて回るのかどっちかにしてくれ、だとか。いっそのこと足して割っていい感じにトントンにしてくれだとか自分の運周りに関しては色々思う所はあったのだが、今はこの妙な運に感謝せねばなるまい。この運が手繰り寄せた縁に結ばれた男士が居たからこそ、どうにかここまでこの本丸も運営し続ける事が出来た。不器用に遠回りに審神者を気遣ってくれる初期刀と、彼の願いに応えようと尽力してくれた残りの初期刀組と、この本丸に集った数多の刀剣たちのお陰で、蒼月は今日も当たり前に生きている。腐ることなく、惑うことなく。手放さざるを得なかった当たり前の日常と似たような日々を、戦いの合間とはいえ過ごせている。
当たり前のようで、尊ぶべき事だった。日々の着実な積み重ねが、審神者から男士への信頼が、男士から審神者への敬愛があってこそ築かれた、温かい本丸が貴重であることを、審神者はよく知っていた。
「切国、蜂須賀、陸奥、歌仙、加州。色々面倒を掛けて悪いね」
「今更だね」
「そうじゃのう。おんしはちぃーっとばかしこっちに頼ってきちゅう方がいいやき」
「今更何迷惑掛けられたって迷惑なんて思わないから」
「うん。……やっぱり私は、刀に恵まれたな」
五年間、支えてくれてありがとう。これからも、宜しく。
傾けられた盃に、五つの盃が傾けられる。杯の中には、彼の本丸を象徴するように満月が映りこんでいた。

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