凪から波浪へ



白磁の小皿に口を付けた青年がごくりと喉仏を動かした。ふわりと香しい味噌の匂いと共にどうしてか神妙な空気が流れており、快活な表情を多く見せる豊前が腰に前掛けを付けた姿で珍しく神妙な顔つきでその様を見守っていた。その後ろで同じようにエプロン姿で彼らを見守るのは主たる翡翠で、他の厨当番も同じようにして見守っている。

「……まあ、合格点だな」
「っしゃ!」
「勘違いするなよ。うちに来た時と比べれば随分とマシになったから合格点をやっただけだ。未だに根菜はなるべく大きさを均一にしろと言っているのに乱切りが甘いし味付けもまだ若干雑だ。修正点は幾らでもある」
「ま、まあまあ国広さん。5日目でこれだけ出来るようになったんですから上出来ですよ」
「あじつけもおおざっぱだったのにここまでととのえられるようになりましたしね!」
「わ、私はそこまで気にしませんから……」
「……あんたの主が優しくてよかったな」

翡翠の進言に眉間に皺を寄せた監督役の青年――山姥切国広はそう告げると寸胴鍋の中身をかき混ぜた。
研修内容はただ単に戦事にまつわる物ばかりではない。生活に関わる物事に関しても一通りの教育を受ける。特にこの豊前は元主の影響で食事を摂らない生活が当たり前だったこと、そして新たな主である翡翠は彼と出来るならば食事を摂りたいと願った。少なくとも人の姿を取っている以上翡翠にとっては食事を摂るもの、という意識が根付いている為、そう思うのも仕方がない。だからこうして豊前は座学と実技だけでなくこうして厨に立って調理の勉強もしていたのだった。……一日三回、七十振を悠に超える朱本丸にて食事の支度というのは常に戦場と遜色ない。そんな中で戦力として数えられあれやこれやと扱かれていればこの短期間でどうにか人様に食べさせられる程度には腕前は上達する。国広の言う通り豊前の腕は所謂男料理と呼ばれるものに近かったが、それでも前田や今剣の言う通り一週間足らずでここまでの仕上がりになったのだから上出来だ。

「二人とも、夕餉の前に風呂に行っておいで。今の時間なら丁度空いているだろうし」
「いいのか?」
「勿論。後は配膳するだけだしね」
「じゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます。ありがとうございます、光忠さん」

そうして二人は厨を抜けて宛がわれた客間に戻るべく廊下の向こうに消えていく。国広から優判定を貰えた豊前は嬉しそうに作った豚汁が得意料理になりそうだと告げ、翡翠はそれに食べるのが楽しみだところころ笑いながら答えた。この短期間研修で新米審神者は随分と審神者らしくなった。好意的な初期刀に対してどう接するのが正解なのか分からない、と言いたげな控えめな言動は今ではきちんと自分の意志を伝えられるようになっている。勿論それまでも意思を伝えられていない訳では無かったが、今まではお願いをする、伺いを立てるといった配下から上の者へ、のような伝え方であり、今では自身で意思決定をした後にどうだろうか、と助言を求めるスタイルに変化している。例えを出すなら「休憩時間に厩に行きたいんだけれども一緒に来て貰えるかな?」が「休憩時間に厩に行くつもりなんだけど一緒に来てくれる?」といった具合だ。「行きたい」と「行こう」は些細な差だが、前者は相手の返答次第で覆り、後者はそうではない。審神者というのは刀剣の持ち手を握る者。勿論刀剣男士の意思を無下にする訳ではないが、自分がどうしたいかの意思表示は上に立つ者として必要だ。
豊前も豊前で随分と初期刀らしい振る舞いが身に付いた。刀剣男士としての強さは勿論彼の信条である疾さにも磨きが掛かり、序盤は大変てこずっていた書類仕事も支障なく熟せる程度には身に着けた。機械類にもまだ覚束ない部分はあるにせよ最低限必要な電話といった通信手段は覚えたし、何より主の右腕、意思の体現者である自覚、自分しか彼女を守る刀が居ないという事実。それが自身の重傷帰還に伴う一連のやり取りで刻み込まれたのが大きかった。

「――島百合さんの言った通り、随分と優秀な生徒だ。翡翠さんも、豊前も」
「……お互い、あんたが仕組んだ重傷帰還の件を皮切りに一皮剥けた、といった印象だな」
「仕組んだなんて人聞きが悪いな、国広」
「実際そうだろう。審神者が誰しも通る道とはいえ、血濡れで死に体の向こうの豊前を見せるだなんてあそこで研修が終了していてもおかしく無かっただろう」
「あそこで膝を屈するようならそれまでだよ。審神者には向いていない」

人にはどうしても向き不向きがある。不向きな物を強制するよりあそこで振るい落とした方がよっぽど彼女にとっては幸せだろう、と彼らが消えた方向とは逆側から現れたこの本丸の主は厨の出入り口の壁に背中を預けてそう、変わらず配膳の準備を進める国広と応酬を交わす。それで、と大量のお椀が入ったカゴを机に置いた彼は予定通りに進めるのか?と主に問いかける。間髪入れずに肯定の意思が返って来た。

「やろう。これは今まで教えてきた事の総まとめだ。幾ら座学と実技が優秀でも、いざという時に役に立たなければ何の意味も無い。緊急時にこそ教えた事を生かせるかどうかが、鍵だ」





しっかりと閉じた圧縮袋の上に膝を立てて体重を掛ければぷしゅう、と気が抜ける音がする。勿論圧縮袋というだけあってちゃんと中の空気も抜けているのだが。その音に反応してか主?という声が聞こえた。

「何してんだ?」
「片付け。開けていいよ」
「お。じゃあ遠慮なく」

そう言うや否や真ん中の仕切り襖がするすると開く。そこには湯上りなのか首にタオルを掛けた豊前が寝間着姿でそこに居た。……二人に宛がわれた部屋は朱本丸のずっと奥、転移門前に居を構える一の丸より随分と離れた場所。六畳二間を襖で分けた部屋は、個人の空間も維持しながら緊急時に豊前が直ぐに翡翠の身を守れるようにと設えられている。再顕現したてで余り物を持っていなかった為に研修時に持ち込んだ者も少なかった豊前とは違い、翡翠は肩掛けの一抱えはあるボストンバックを持参した為にそこそこ広げた物も多かったのだ。物持ちになってしまうのは化粧だ何だと女性特有のアレコレの為仕方のない事である。そうして翡翠は残り一日となった研修でもう使わないだろうと思わしきタオル類等を早々に圧縮して片付けていたのだ。傍らに置いてあったその袋をぺらりと摘まみ上げた豊前はしげしげと感心したように眺め、便利なもんだなあと一人ごちる。

「でも主、ちっとばかし早くね?あと一日あるんだし明日でもいいと思うけどなあ」
「明日は明日でこの部屋自体の掃除とかしないといけないし。早く片付けておいて罰は当たらないよ」
「それもそうか。立つ鳥跡を濁さず、ってか」
「そうそう」

懸命に膝で袋を押して圧縮する様を見て手にしたそれを丁寧に畳んだ豊前はやってやんよ、と翡翠に貸すように手を差し出す。お願いしていい?と彼女が身体を退けば、豊前は膝……ではなく両手でぐっと袋を押す。裏返したり丸める向きを逆にしたりして懸命に圧縮してたそれは彼の腕力と握力でみるみるうちに萎んでいった。流石、と舌を巻いている間に同じように袋に入れておいた物をこれもか、と彼は次々と押し縮めていく、様を眺めながら何となく哀愁を感じていた。旅行の帰り支度と似たような、あっという間だったような、名残惜しいような、そんな感覚。

「……あっという間、だったなあ」
「ん?何がだ?研修?」
「うん。六日間の短期研修とはいえ、それでも大体丸一週間でしょう。長く感じると思ってたのに」
「蓋を開けてみれば怒涛の連続、あっという間ってか?俺もだ」

やる事覚える事が山ほどあったからなあ。と豊前は圧縮し終えたそれをほい、と翡翠に手渡した。ありがとう、と受け取ってボストンバッグの中に詰め込む。これを引っ張り出した時には不安と緊張で押し潰されそうだったのに、たった五日で名残惜しさを感じる様になるなんて。それはそれだけこの研修が目まぐるしくも充実していた何よりの証拠であった。胡坐を掻いた豊前がにへらと笑う。少しはあんたの初期刀らしくなれたかね、と。

「私は朱さんと陸奥守さんの二人しか知らないから初期刀らしさ、はよく分からないけど……豊前はずっと、私によくしてくれているよ?」
「そうかあ?」
「うん。だって私、あなたの今までの主とは随分と勝手が違うでしょう。女だし、非力だし、戦場の事だってよく知らなかったし、研修が始まる前はあなたにどう接していいかも、分かってなかったし」

でも、それを咎める事は無かった。急ぐ事も、無かった。
豊前が重傷を負って帰って来てから彼女は、出来る限り豊前の事をよく知ろうとした。目の前に居る彼が何なのか分からなくなったから、知ろうとした。そして気付いたのだ。彼は、優しかったのだ。
道場で陸奥に転がされている様を目撃されると、決まってバツが悪そうな顔をした。それはきっと、荒事に慣れていない翡翠を思っての事だろう。翡翠の手を借りずに一等苦手な書類仕事に悪戦苦闘してどうにか覚えたのは、勿論初期刀として必須技能だったのもあるが、それは回りまわって翡翠の助けになるからであろう。主、と自分を呼び止める彼は何時も、カウンター越し、或いは受付嬢として接していた頃の彼と何ら変わりのない、気持ちの良い笑顔を浮かべる彼であった。人ではなく、刀であり、神でありながら純粋な神ではない、人の心を持った、人ではない、人の肉体を持った、刀の人。ただの人間である自分とは間違いなく異なる存在。でも、恐れる必要は無いと思った。少なくとも目の前に居る豊前江という彼女にとって初めてであり、現状唯一の刀は信頼に値する。こんなにも優しい人を、怖がる理由なんて、無かった。
刀剣男士とは何なのだろう。数日前に抱いた疑問に対して答えを出すにはまだ翡翠には日が浅く、経験も無く、答えを出すには至らないが、それでも味方であれば、手を取り合う間柄であればこんなに頼りになる存在はいない。翡翠は現状、そういう風に思う事にしたのだ。





「それじゃあ私は本丸を外すけれど、戻るまでは自由にしていて構わないよ。終わり次第直ぐに戻る」
「はい、行ってらっしゃいませ、先生。お気を付けて」

そう朱と言葉を交わしたのが数十分ほど前なんて信じられなかった。カーンカーンと何処からともなく鐘の音がひっきりなしに鳴り続いており、意図は分からなかったが只事ではないのは直ぐに理解出来た。心許なく視線を揺らす翡翠を庇うように前に出て腰を浮かした豊前は油断なく腰から外していた本体を掴んで様子を伺っている。

研修六日目、午後。波乱の幕開けであった。




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