アイリスをあなたに



確かに彼は、人では無かった。
人間がこれほどの傷を負って生きているわけが無い。
けれど、力なく垂れた腕から滴り落ちるそれは、私達と同じ、赤色だった。
決して、かつて神の血の色とされた青色では、無かったのだ。





研修のざっくりとした予定は午前が座学、午後は実践だ。
午前中は教師である朱と、同じように教鞭役に選ばれた男士が付いて翡翠と豊前を揃って指導をする。勿論審神者と刀剣男士では履修する内容に差異はあったが、計上報告や決算報告などは大抵が二人三脚で事に当たる場合が多い。それに審神者を支える右腕となる初期刀は審神者の業務内容も知っていて損はない為、机を並べて講義を受けるのだ。文字が沢山あるもの、つまりこういった事務作業を苦手とする豊前は眉間に深く皺を寄せて苦戦しており、比較的得意らしい翡翠が手助けをしようとしてはやんわりと彼の為にならない、と止められる様が多々見受けられるのが授業風景であった。
そうして昼食を摂った後小休憩を挟んでから、午後の実技に切り替わる。豊前は刀装を携え朱本丸の面々と混ざって出陣をしたり手合わせに勤しみ、翡翠は引き続き朱の下でほぼマンツーマンの体制で鍛刀や刀装作りの配分の手解きや審神者として必要な情報収集に適切な場など、男士が居る下では中々教えにくい事を教え込む。と同時に彼が出陣している間はモニタリングをして進軍か撤退かを決める際の判断材料を教えたり、と別れて各々が受け持つ仕事に専念する、というのが流れであった。
勿論座学と実技以外にも食事の支度を手伝ったり、掃除をしたり当番の手伝いをしたりとやる事は満載で、二人が宛がわれた部屋に戻って来る時にはくたくたになっている事が殆どであった。……座学は比較的得意な翡翠は実技で手間取り、シュミレーション上で撤退の判断を見極めきれずに師範に叱られる事が多く、豊前は豊前で戦場に出れば強者揃いの朱本丸の男士の強さに舌を巻き、手合わせをしてもいいように転がされる事が多くお互いに顔を突き合わせて反省会を就寝前にするのが日課となり始めていたのだった。お互い必死だった。新しい生活に慣れようと、新しい主に慣れようと、新しいやり方に慣れようと。

……その日は、進軍と撤退の判断を苦手とする翡翠の為に朱はモニタリングは無しにしましょうとホログラムモニターを切ったのだった。今日の出陣先は彼らに一任しても大丈夫な場所ですので此方に集中しましょうと。本丸運営をする訳ではない翡翠だが、進軍と撤退の是非というのは刀剣男士を従える以上絶対に必要な技能だ。現場にいる刀剣男士とコミュニケーションを取りながら、部隊の損傷具合と士気を鑑みて判断を下す。例え中傷を負っていたとしても最奥までの距離が短く士気もあるならば進軍許可を下すのは、有りだ。少なくとも前線で刀剣男士を使い卸す審神者ならば、特に京都以降の戦場ではその手は日常的に使われるのを知っている。状況に応じて臨機応変な判断が求められるからこそ、この先ただ殲滅するだけではない、時には無力化したり救いようがないとして破壊する等審神者や墜ちた刀剣男士を相手取る可能性がある翡翠には絶対必要な技能だった。翡翠も一番自分が未熟な技能が此処だと分かっていた。だからこそ、集中して展開されたホログラムモニターと手元の膨大なメモを交互に見ながら頭を悩ませていた、最中だった。

「主!!」
「どうした安定。何の前触れも無しに」
「今第三部隊が戻ったんだけど、翡翠さんの豊前が……!」
「っ、え、豊前?私の豊前って言いました、安定さん、」

どくりと心臓が跳ね上がる。いつの間にか膝の上で握った手の内はべっとりと汗をかいていて、反射的に見た師範役の顔はひそりと眉間に皺を寄せている。彼の練度でも十分に渡り合える場所に行かせたはずなんだが、と腰を上げた。既に立ち上がっていた彼女は先に行っていい物か悩まし気に襖と朱を交互に見ていたが、行ってあげなさいという言葉に背中を押されるように足を縺れさせながら玄関へと走る。本来なら走るのはいけない事であったが、通りすがる男士は事態を把握しているのか咎める事は無かった。そうして渡り廊下を駆け抜けて一の丸に辿り着いた彼女は立ち竦む。噎せ返るような血の匂いに、くらりと眩暈がした。そうして、冒頭に戻る。





部隊長であった加州に肩と腰に手を回される形でそこに、彼女の豊前江は居た。
彼の肩に回された手も、空いた手も、どちらも力なく垂れさがっている。肩から下げた防具が半壊し、垂らしていた袖印も破れてほぼ原形を留めていない。切り裂かれて前が開いてしまったシャツは血濡れで、特に脇腹に掛けての損傷が凄まじい。つつ、と腕、肘、指先と伝って落ちた雫は、真っ赤であった。

ぶぜん。震えた声で翡翠が呟く。
その声に反応したように、ぴくりと肩が動いた。俯いたままの頭が、持ち上がろうとして、がくりと項垂れる。……生きている。加州の話によれば高速槍に脇腹を刺し貫かれたのが致命的な傷となったらしい。折れる寸前。本霊に還るほんの少し手前、ほんの少しの衝撃を受けたら簡単に折れてしまいそうな、そんな状態。それでも尚、彼の意識があるのは、紛れもなく彼が人ではない証明であった。人の形を取っているだけの存在。けれど流れる血はかつて神の血の色とされた青ではなく、自分たちの身体を巡る血液と同じ深紅で。人の肉体を持ちながら人ではなく、付喪神でありながら流れる血の色は赤色。ぐちゃりと頭の中が歪むようだった。人と変わらない姿であった彼は、人ではない。しかし神と呼ぶには、余りに人の感性に近い。目の前に居る彼が何なのか、分からなくなりそうだった。それを噎せ返るような血の匂いが助長されて、気を確かに持っていないとそのまま気を失ってしまいそうで。
身体を思わず折って、心臓の辺りを掴んで荒い呼吸を繰り返す翡翠をいつの間にか玄関に到着していた朱は一瞥した。これは、朱の意図した事であった。

今回出陣した先は、確かに豊前の練度であればそこに出現する歴史修正主義者を難なく倒せるだろう。しかしそこは、審神者には通称検非違使マークと呼ばれるものが浮上していた戦場だったのだ。検非違使は、その部隊長に合わせた練度帯で現れる。今回の最高練度は極め書きを得ていた加州。その練度に合わせた検非違使なぞ、豊前が叶う筈もない相手であった。それを承知で朱は出陣させた。全ては翡翠に、全ての審神者が通る洗礼を受けさせる為に。
審神者にはチュートリアル出陣というものが存在する。顕現した初期刀を携えて本丸を訪れてから早々に彼を出陣させる、審神者と刀剣男士の職務が何なのかというのを示すシステムだ。しかし、練度1且つ身を守ってくれる刀装なしでの函館への出陣は重傷は不可避であり、殆どが敗北で本丸に帰還する。極稀に勝利をもぎ取って帰って来る事もあるらしいが、どちらにせよ血濡れの初期刀を迎え入れるのには変わりない。余りに衝撃的なその姿に手入れどころの騒ぎでは無くなってしまう審神者も居るし、どうにか持ちこたえて手入れ部屋に走る者も居る。一部では審神者のふるい落としも兼ねているのではという噂がある程だ。俺達がやっていることは戦争なのだと。死と血が隣り合わせの世界に飛び込むのだと分からせるための、システムなのではないかと。
このチュートリアル出陣は何時しか洗礼と呼ばれるようになり、朱はそれを疑似的に再現したのだ。彼女が審神者としてやっていける器なのか。此処で倒れる様な器量ならば、残念だが審神者には向いていない。ましてや機敏な人や刀剣男士の心と対峙する刀衆の仕事はもっと向いていないだろう。そういった物事を判断するための、洗礼であった。

翡翠は未だに俯いたままだ。肩が震え、息も荒い。意識はどうにか保っているようであったが、このまま動けないようであれば――と、そこで彼女の視点が掌で止まる。
固く結んでいた。震える手を抑え込むように、必死に、爪が肌に食い込まんばかりに、握っていた。何かに耐える様に。すぅ、すぅ、と繰り返される音は歯を食い縛った隙間から漏れた音で、一際強く拳を握りこんだ翡翠は両手を持ち上げて――パン!と小気味よい音を立てて、自分で活を入れるように、自身の頬を叩いたのだ。きっと持ち上げられた顔は涙で濡れていたが、瞳には確かに強い意志があった。そのまま羽織っていた上着を勢いよく脱ぐと、部隊に一歩近づいて問いかけたのだ。豊前の本体はどこですか、と。それに答えたのは薬研だ。極力衝撃を与えないようにと彼のポーチに入っていた白い手ぬぐいに一番損傷が激しい場所を包む形で彼が両手に携えていたのを、脱ぎ払った上着が汚れるのも構わずその上に乗せる様にして受け取った。その細い刀身に見合わず、彼そのものである刀は重かった。豊前江という存在の、命の重さだった。ぎゅうと抱きしめたくなる気持ちを振り払ってありがとうございます、と頭を深々と下げる。

「血も付いてるし、戦汚れだってある。折角の綺麗な服、汚しちゃってるけどいいの」
「構いません。豊前の命に代えたら服一枚駄目にするくらい何てことありません」
「……そっか。豊前、聞いてた?あんたの主がこう言ってるんだからもうちょい気張りな。意識持ってかれたら多分、負けだからね」

発破を掛ける加州の言葉にほんの少しだけ指が動くが、矢張り言葉を発する気力は無いのか沈黙したままだ。豊前、と翡翠が膝を折る。どうにかして腕で本体を支えながら手を伸ばした彼女は、血で汚れるのも構わずに投げ出された手を握る。まだ、温かかった。生きている者の体温だった。

「豊前、ぶぜん。……私、頑張って手入れしてくるから、教わった事の実践。頑張って来るから、だから、……死なないで」
「……あ、……るじ、」
「っ、うん、うん、頑張るから、きっと必ずあなたを治すから。だから、ぶぜん、あなたも負けないで」

掠れた声で、彼女の名前を呼ぶ。それが今の豊前に出来る精一杯の返答であった。
涙ながらに頷いた彼女は即座に立ち上がると先生、手入れ部屋お借りしますと告げるや否や足早に立ち去っていく。何時もの彼女であれば許可を取るだろうにそれをしない辺り、内心では相当焦っているのであろう。その姿を見送った朱は私も行こう、と踵を返す前に第三部隊に指示を飛ばした。薬研と加州は手入れ部屋に豊前を連れて行き武装を解かせて寝かせる事、その他の者は出陣後の事後処理。そうしてばらけていった彼らを見送った審神者の隣に立った安定は肩を竦めた。厳しいね、主、と。

「まあ審神者の誰もが通る洗礼だ。受けておいて損は無いだろう?」
「にしたって大分ダメージ負ってたみたいだけど?でも思っていたより気丈だったね」
「ああ。私が声を掛けるまでもなく自分で立ち直っていたのは評価に値するな。まだまだ甘いけれど」

死なないでと言った。折れないで、ではなく。
治すと言った。直す、ではなく。
それはまだ、彼女が豊前を人間寄りに見ている証拠でもあった。洗礼は彼女の審神者としての器を量る為でもあったが、同時に彼ら刀剣男士が人の器を持っているだけで決して人ではない事を見せる為でもあったのだ。彼らを人寄りに見すぎると、中傷進軍を躊躇うと言った弊害が出てくる。彼らは受肉をしているだけであって人間ではない。極端に言えば臓器が出ていようが戦おうと思えば戦える。人間では絶対に動けない傷を負ってもまだ動けるのが、人の身体を持ちながら人ではなく、神の呼称を持ちながら神格は低く、刀でありながらその心は人間によく似た、刀剣男士と言う存在なのだ。それを彼女の目に見せる必要があると感じた。彼女の采配が下手なのは、その優しさが故に人間寄りに彼を見ていたからだ。彼らのポテンシャルを知らないが故の、非情な判断を下せない優しい甘さから来るものだったから、洗礼を受けさせる必要があると朱は判断したのだ。勿論、翡翠はまだまだ甘い。非情な判断を下すにはもう少し彼らを知る必要があるだろう。それでも瀕死の傷を負った豊前を見ても尚、何とか自分の力で立ち直って見せた彼女に朱は多少の光明を見出していたのだった。





移ろぎ、揺らぎ、微睡んでいた意識が浮上する。
小さな唸り声と共に、深い眠りの底に居た豊前は漸く瞼を持ち上げた。ルビー色の瞳が、今の状況を判断しようと右往左往と巡り、一点に止まる。器用にも傍らで座ったまま、彼女が船を漕いでいた。起き上がれば額からずるりと折り畳んだタオルが落ちる。温くなった濡れタオルを近くに遭った盆に置いて、ぐるりと見渡す。手入れ部屋だ、と直感で理解した。朱本丸の手入れ部屋は覗いた程度であったが、嘗て居た本丸の同じ部屋とよく似ている。自分の身体を見下ろせば武装を解いた寝間着姿で、普段身に纏っている服は傍にきっちり畳んだ状態で置かれていた。襟を掴んで脇腹を覗けば、傷一つ無く直されており、どうやらこの新米主は自分を完璧に直しきったらしい。主、と豊前が掌を伸ばして彼女の頬に触れれば、んんという小さな呻き声と共に薄い瞼が持ち上がる。二度、三度瞬いて覗いた翡翠色が豊前を捉えた瞬間、薄い水の膜が瞳を覆う。鏡のように映りながらもその膜で歪んだ己の顔が、目を見張るのが分かった。

「ぶ、ぶぜ、ん」
「主、」
「い、痛い所はない?不自由な所は?何ともない?」
「でーじょーぶだよ、ほら、何ともないだろ?主がちゃんと直してくれたおか、」

矢継ぎ早に聞いてくる彼女に襟元をくつろげるように肌を見せて大丈夫だと示せば、一気に緊張の糸が切れたのかそれまで何とか堪えていた雫が大粒となって目尻から流れ出す。流石の豊前も動揺しつつおい、と手を伸ばせばそれに縋るように泣き崩れてしまうので本格的に参ってしまう。決して重傷帰還が初めてでは無かったが、こんなに泣かれたのは初めてだった。前の主の頃は即手入れ部屋に連れ込まれ手伝い札で即治療、が当たり前だった為会話をすることさえそう無かったような気さえする。ここまで考えて、改めて新しい主である目の前の彼女が脆く、弱い人間であるのを改めて実感した。前の傑物じみた、審神者としての経験値を重ねた主とは違う。経験もなければ荒事とは程遠い世界で生きて来た、自分が深く傷を負った事で心を痛め、目覚めた事に歓喜と安心の余りに涙を流すような、弱くて優しくて甘い、此度の主。特殊な場所に身を置く事を決めた彼女にとって、少なくとも今は自分が唯一の刀。お互いに分かっていなかったのだ。お互いの事も、自分の立場も。

「主」
「っ、ぶぜ、」
「泣くなちゃ。そげん泣かれたらどうすりゃいいのか分からんけさ」
「でも、だって、豊前、死んじゃうかと思って、」
「そりゃあ悪かった。やけ、強うなるちゃ」

一呼吸置いて、あんたがもう泣かないように。泣かないで、済むように。
静かな声でそう決意表明した初期刀に、翡翠は何度もこくこくと首を縦に振って頷いた。そして彼女も涙ながらに告げるのだ。私も、もっと頑張る、と。

「例え、戦う事が使命のあなたでも。私は豊前に、出来るだけ傷付いて欲しくない、から。二度とは無理でも、出来る限りもう、あんな姿のあなたを見るのは、御免だよ。だからもっと勉強するし、頑張るから。だから、一緒に頑張ろう、豊前」
「おう。俺は練度上げは勿論だけど、研修が終わるまでにあの陸奥に一本取る!……のを目標にするわ」
「私は朱様との盤上シュミレーションで一度は勝つことを目標にする。それから、もし時間があったら……豊前が手合わせしている所、見に行ってもいいかな」
「それは勿論大歓迎だけど……何でだ?」
「ちょっと、思う所があって。見てみたいなって」

そっか、と快活に笑った豊前にこくりと頷く。
彼女は少なくとも見かけは人間と変わらない豊前を、人間のように見ていた。だから、シュミレーションでも「これ以上の進軍は死んでしまう」と中傷進軍の判断を下せないでいた。朱が諭しても、彼女が知る刀剣男士の姿は何時も健常で、見目麗しい人の姿だった。傷を負った姿やましてや墜ちた姿なぞ、知る由も無かった。自分の目で見る事と教え込まれる内容では、よく知る前者の意識がこびり付いてしまうのも致し方のない事であった。朱本丸は極に出来る刀は全員極め書きを得ており、そうでない男士も余程の最前線に出ない限りは重傷帰還する事は無い。それを目にする環境でも無かったが故に、彼女の無意識は助長された。
けれど、それは今日の一件で打ち砕かれた。人ではない事を知った。本質は刀である事を知った。純粋な神ではない事を知った。その心の感性は人に近い物だと、知った。では、刀剣男士とは何なのだろう?人でないのなら、純粋な神でないのなら、刀であるのに人の肉体を持つのなら、目の前に居る彼は一体何なのだろう。まだ、審神者になって一月も経たない彼女に答えを出す事は、出来なかった。出来なかったけれど、目の前で形の良い眉を下げる彼を恐れる気持ちは、無かった。縋った手の温かさは、信じられるものだった。

刀剣男士が何であるのか。その答えはまだ翡翠には出せないでいたが。
自分を主と仰いでくれる豊前を、泣かせたことを悔やんで強くなると決意をしてくれた彼を。翡翠だけの豊前江を。
ただただ、信じようと思った。そして、何であるのかを考える為に、豊前江という存在を知ろうと思ったのだ。




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