一時間ハグしていないと出られない部屋



確かに、勢いを付けて振り抜かれた筈の足が壁を打ちのめしたにも関わらずその壁は白亜のままだった。反響した音がどこまで続いているのか分からない部屋に空しく響き渡り、ずるずるとへたりこむ。主、と此方に視線だけ投げた彼が腰の本体に手を掛けるが、それだけは駄目だと首を振った。手入れ道具も無いこの状況で何かあったら本当にどうしようもなくなってしまう。それは、本当に本当の最終手段に取っておいて、とだけ告げて手元の端末を点ける。無情にも、圏外のままであった。

転移門を抜ければ、そこは白だった。
本来待ち構えている筈の政府本部の地下、コンクリートのような材質で組み上げられた部屋に繋がる筈の門はどういう訳か、どこまでも果てしなく続く白い部屋に繋がっていた。先述通り端末のアンテナは一切立っておらず、出口も見当たらない。刀剣男士であり人間よりはるかに優れたポテンシャルを持つであろう豊前が壁を思い切り蹴飛ばしてもタックルをしてみてもびくともしない。此処から出る手立ては、私が座りこんだ時に手放して今は豊前の手の内にある一枚の紙のみである。

「一時間のはぐ、ってつまりは抱擁だろ?」
「……そうだね」
「そんなんで本当に出られるのかあ?」

訝し気に紙をピラピラとさせる豊前に何度も縦に首を振って頷く。全く持って意味が解らない。
人をこんな所に閉じ込めておいて(閉じ込めるという解釈が合っているのかどうか分からないが)、要求する事がこれ。普通ならもっと脅すなり何なりするのが普通なのでは?何かしら裏があるのではないか?と勘繰ってしまう。が、此方の思惑とは裏腹に紙を光に翳しても裏面に目を凝らしても折って何かが見える訳でも無く。現状脱出の手立ては紙に書かれた条件しか見当たらないのであった。どうしてこんなことに、と頭痛を覚える私の隣によくわっかんねえけど、と豊前がどっかりと胡坐を掻いて腰を下ろす。そうして主、と彼女――翡翠の事を呼んでから、両腕を広げてみせるのだ。余りにもその姿が様になるものだから思わず目を細める。眩しい。オーラというものが翡翠に見えていたらさぞ今の初期刀はキラキラと輝いていただろう。

「何か実害がある訳でも無いし。試してみてもいいんじゃねえ?」
「ほ、本気……?」
「なーんでこんな事で嘘つく必要があるんだよ」

早く早く、と急かすように呼び立てる彼に気は進まなかったが重い腰を上げた。何時までもこんな場所に居るのはそれこそ御免だからだ。どうすればいいの、と近づいて膝を折った私に、俺に背中向けて座ってくれりゃあいいよと組んだ脚の中をポンポンと叩く。やっぱり進まない気の中きゅっと唇を結んでそーっと腰を降ろせば、遠慮すんなって、という声と共に腰に腕が回された。うわあ!?なんて素っ頓狂な声を上げる審神者とは対照的に楽しそうな笑い声を上げた豊前はぎゅうと効果音が付きそうなほど翡翠を抱きすくめる。

「ぶ、豊前!」
「いいやろ別に、減るもんでんねえし。それに妙に間が空いちょる方が後々恥ずかしゅうなるぞ?」
「……それは、そうかも、だけど」
「そうそう、大人しくしとけって」

咎めるように名前を呼んで多少なり抵抗した翡翠であったが、結局丸め込まれて大人しく彼の胡坐の上で縮こまった。元より身長差があった為いい感じに収まってしまったのもまた質が悪い。思っていたより豊前との距離は近いし、当の本人はいやに上機嫌だし、翡翠はふつふつと湧き上がる羞恥心に耐えながら無言を貫くしか無かったのだった。
そうして沈黙が続いて少し、徐に豊前が口を開く。凄う落ち着く、と抱きしめる力が強くなって、ぐりと肩口に額を押し当てられるものだから一瞬身体が強張るもののその緩んだ口調に緊張を解いた。どうしたの、と問いかければ少しだけ顔が動いて、ルビー色の瞳と視線がかち合う。随分と穏やかな光を称えたつり目がちの瞳が、目元で和らぐように笑った。

「主が近いと、あんたから匂う霊力が近くに感じられるから。すげー落ち着く」
「にお……?」
「あれ、言った事無かったっけか。人によって霊力には差異があって、感じ方も変わるんだよ。あんたのは金木犀の香りと似た、芳しい花のような匂いがする」
「そう、なんだ?確かに金木犀は一番好きな花だけど……それも関係してるのかな」
「俺は有識者じゃねえからその辺りは何とも。ただそう感じるってだけ。で、すげえ落ち着くって話」

そうしてまた豊前は肩口に顔を埋めるようにして彼女を抱きすくめる。今度は、翡翠も嫌がる素振りは見せなかった。ただ照れ臭そうに視線を外して、何もない白い床をただ見つめるのみだったが。
豊前江という存在を繋ぎ止める要石が、審神者だ。この場合は翡翠と翡翠の霊力を指す。審神者無くてはどんな刀剣男士も肉体を得て現世に降り立つことは叶わない。豊前の場合は大本である本霊――豊前江という存在そのものが行方知れずになっているのもあって、思う所は彼の性格とは裏腹に多いのだ。刀剣男士は逸話無くして成る事は叶わない。彼の場合は「郷義弘作刀の中で最も華やかな出来」「郷とお化けは見た事が無い」を以て成り立っている。だが、それだけでは足りないのだ。「豊前江は今でもどこかで隠れるようにして眠っている」「豊前江は存在する。このタイミングまでは確かに存在が確認されていたのだから、どこかに必ず眠っている筈だ」と彼の現存を信じる人間が無くては豊前江という付喪神は成り立たない。己を愛してくれる人間居てこその豊前江。だから彼は基本的性格として人間に好意的であったし、自分という朧げな存在を繋ぎ止めてくれる審神者に対して思う所は、多い。だからこそ審神者と自分を繋ぐ糸である霊力を濃く感じ取れる事に少なくともこの豊前は安心を覚えたのだ。

「主」
「今度はなあに?」
「主はやっぱし細うて柔らかいなあ」
「……豊前、それは、時と場合によっては、セクハラと言います」
「痛っ!」

……まあ、それはそれとして男の身体と自我を持ち、審神者に恋情を抱く身としては都合のいい展開ではあったが。
思わず零した本音に肩を揺らして反応した翡翠はきっちり剥き出しの彼の右腕を抓り上げた。どこかふわふわとした空気を纏っている主は、意外と可愛らしいとはいえしっかり制裁を入れてくる辺りしゃんとしている。ただ人が良いだけじゃない、そういう所も好ましいのだが。今はこうしていないといけないのだからこのままで、と伺いを立てればはあ、とため息交じりにいいよ、と許してしまう甘さも心地よい。きっと前の主に仕えていた頃の自分が知ったらさぞ驚いた事だろう。食事を摂らず、ただ人間の振りをぎこちなくする生活と刀を振るい続けるばかりのあの頃と、当たり前のように一日三食食事を摂り、ただの人の子である翡翠の言動や行動に一喜一憂する日々。自分だってあの白装束の太刀では無いが驚きだと思う。……思い通りにならない、ままならない人の子と人の身体。だからこそ人の身を持って生きるというのは、こんなにも面白いのかもしれない。

そうしている間にも体温を分かち合うような体制になっていたからか、何も無いし自分たちの喋り声以外は何も聞こえない環境だからか、理由はなんにせよ分からなかったが。一人と一振揃って微睡んでしまった彼らは近くの壁に出口が音もなく現れても尚夢から覚めずにいたのは、彼らだけの秘密の話である。




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