紅玉の守り刀



『待つのは得意だ』、と告げた刀剣男士が居た。徳川幕府の霊的な守護を期待され担っていた、彼の有名な坂上宝剣の写しとして打たれた刀であった。しかし彼は徳川に所縁のある家に伝わりはせど、きっての霊剣でも何でもなく疾さを信条とする刀剣男士である。故に護衛という役割は理解していても、矢張り退屈な訳で。それを察したように待合室の椅子に腰掛けた老齢の彼の主は悪いな、と皺が刻まれた顔のまま苦笑を浮かべる。

「いいって。どういう理由だか知らねえが、たくしぃとやらが遅れてるのは主のせいじゃねえよ。謝んなって」
「そう言って貰えると有難いが……おや」

彼――豊前の主は老齢であった。とある寺の檀家の出身であった男は、審神者の適性を見出されて一般公募が始まるよりも早く歴史修正主義者との戦いに身を投じる事となった。その時点で既に勤めていた会社を寿退社しており、本丸での生活は年を重ねる毎に衰えていく身体との戦いとなる。膝を痛め、腰は曲がり、本丸はそんな主が行き来しやすいようにと段差を埋めたバリアフリー化が進んでいく。主が過ごしやすい本丸を調えても、衰えた身体機能は矢張り病魔を見過ごしており、豊前が顕現した頃には男は月二回の通院を欠かす事は出来ない身体になっていたのだった。本部に併設する形で病院は一つ審神者の為にと作られていたが、男は此処ではない別の病院に行かねばならず、毎度タクシーを手配し待合室で来るのを待つのが何時もの事であった。
審神者の声に腕を組んで主を見ていた彼の視線が持ち上がる。一人の女がカウンターから此方を伺うように歩み寄ってくる。シャツにチェックベスト、スカートスーツにヒールのパンプス。如何にもといった受付嬢姿の彼女がちらりと豊前江へと伺いを立てる様に視線を送った。ふわりと金木犀の香りがして、ぱちりと瞼を瞬かせながらも豊前は小さく顎を引く。

「失礼いたします。審神者様、ずっとこの待合室に居られるですが……もしかしてずっと待たれていらっしゃいます?」
「いやいや、そうではないよ。これから別の病院に行かなくちゃならないんだが、タクシーが中々来なくて」
「ああ……成程。少しお待ちくださいね」

懐から小さな端末を取り出した彼女はすいすいと慣れた手つきで指を画面に滑らせた。暫くした後にああ、と小さく零して審神者様、と告げると同時に画面に置いたままの指を勢いよく上方向へと滑らせる。と同時に小さなホログラムモニターが展開し、その大きさを弄った彼女は此処ですね、と一点を指差した。静観していた豊前も身を屈めてモニターに見入る。受付嬢が指を指したのは地図の一部、大きく太い帯のような場所であった。

「対策本部に来るに当たって避けては通れない幹線道路で事故があったようです。玉突き事故で道路規制も掛かっているそうですから、運悪くお待ちのタクシーもそれに巻き込まれてしまったのかもしれません」
「そうか。それで今日は随分遅いんだな。豊前、もうしばらく掛かりそうだ。すまんな」
「だから謝んなって。でーじょーぶだ」
「何かお飲み物をお持ちしましょうか?ずっと待ちぼうけは大変でしょう」
「ではお茶を一つ。豊前は?」
「俺?俺は……そうだな。主と同じのを頼めるか?」
「畏まりました」

暫くお待ちください、と深々と頭を下げて踵を返した彼女が立ち去ると同時に矢張りふわりと金木犀の香りが漂った。もったいねえな、と豊前は呟く。

「何がだ?」
「いい霊力だなって」

ああ、と男は目を細めた。豊前が金木犀の香りに例えたそれは、彼女の霊力の気配であった。
主はあくまで主観だが、清涼剤のような霊力だった。触れた瞬間背筋が伸びて、微睡んでいた頭も冴えわたるような。彼の身体は確かに衰えを刻んではいたが、その霊力は衰えを感じさせないままであった。始まりがあれば終わりがある。終焉の気配は確かにあの本丸に漂い始めていたが、悲惨な終わり方にはならないであろうという事だけが唯一の救いであった。……話は逸れたが、薫るような彼女の霊力は主とはまた違って心地の良いものだった。
そうして幾度か理由は違えど本部に向かう度に、豊前は彼女と邂逅した。主と連れ立っていればあの時の豊前江だと気付いて豊前様、と微笑む彼女に何時からか彼は人の子として好ましく思い始めた。勿論その霊力の心地よさも理由の一つではあったが、多忙な本部受付役の業務の中自分たちだけでなく他の審神者にも気付いた点があれば平等に話しかけ、気を遣う様に余程の理不尽がない限り好感を抱かない者は居ないだろう。よく気が利いたその行動は、彼女の曇りなき善性から来るものだと気付くのにそう時間は掛からなかった。

「政府の刀に?」
「意外ですね。りいだあは他の審神者の方の下に行くのかと思っていました」

同室であり同派である籠手切と桑名の偽りなき返事と表情にそうかあ?と彼は空いた手でぽりぽりと首の黒子の辺りを掻く。歌って踊れる江を目指す籠手切と、野菜と大地を慈しむ桑名と、疾さを愛する豊前の相部屋は三人部屋なのも相まってかなりの物で溢れかえっていたが、断捨離を進めた結果随分とからっぽの部屋となってしまっていた。

審神者の、退役が決まった。

それをあっさりとこの本丸の刀達は受け入れた。最近は業務にも支障が出て、政府主催のイベントには参加せずに日々のノルマだけを消化する日々を過ごしていた彼らは、否。半年ほど前から既にこうなる事を予測していた。齢八十手前。審神者としては随分と頑張った方だろう。四月の新年度を迎えるに当たって、本丸の解体作業が進められていた。退役の日まではノルマの消化だけは続けるが、それ以外は自分の近辺整理に精を出す男士が殆どであった。
籠手切は主が一年ほど前に面倒を見た見習いが入れ替わりで正式に審神者に着任する事が決まったらしく、彼の下に世話になるのだという。一抱え程ある段ボールには、彼が大事に使ってきたれっすん道具や擦り切れんばかりに見たメディア露出をしている本丸の円盤が収まっている。桑名江は畑当番の手腕を見込まれて、出陣ではなく農業に力を入れている本丸に行く事になったそうだ。そんな本丸が存在するのかと驚いた豊前だったが、多くの刀剣男士を顕現させている本丸では膨大な食料を必要とすることを桑名本人に説かれてああ、と納得する。この本丸の刀剣男士は食事は摂らず、審神者だけが刀が育てた野菜を口にしていたからだ。

「だってりいだあ、聚楽第の時も眉間に皺を寄せていらっしゃいましたから。如何にも不機嫌そうなお顔で」
「そりゃあこんな歳になるまで戦い続けてる主に対して戦が終わらねえ責任を疑うなんて不機嫌にもなるだろ」
「まあ、うちの主は実直、真面目が売りでここまでやってきたからねえ」

豊前江はそう、政府に対して幾分かの不信感を抱いていた。偶然聚楽第の入電が入ったタイミングに居合わせたのもあって、それを読み上げた主が密かに顔を歪めていたのもよく覚えている。老体に鞭を打ちながらここまでやってきた主に対しての政府の言葉に不快感を覚えるのも無理のない事であった。確かに努力を重ねて実力を示して来た筈のそれを、根本から疑うようなその姿勢は豊前でなくとも真っ当な刀剣男士ならば不快に思う事だろう。だからこそ意外だったのだ。あの豊前が政府の刀になる事を決めるだなんて。

「確かにまだ不信感は拭えてねーけどさ。そういう奴ばっかりじゃないって事も分かったから、ちょっと賭けてみたい気持ちになったんだよ」
「へえ……」
「ま、俺達刀は主を選べねーからな。どうなるかはわっかんねえけど、なるようになるだろ!」

彼女の刀になりたいと思わなくも無かったが、彼女が審神者になるかなんて豊前にはこれっぽっちも分からない事だった。そもそも先述通り刀は主を選べない。だからこそこれを賭けだと彼は言い、あわよくば彼女のような心持の善き審神者に出会えれば僥倖。悪い奴に当たった時は意地でも顕現してやらねえ、と彼は笑い飛ばしたのだった。

そんな会話から一週間後。本丸は解体の日を迎える。
主の供をすると決めた歌仙に習合される形で付いていくもの、別の本丸に向かう者、此処を終の場所だと決めた者、自分の行く末を定めた刀は様々であったが政府に向かうと決めた刀はほんの一握りであった。政府からの遣いの人間に渡す為に真っ先に霊力の繋がりを絶たれ顕現を解かれる彼らは、感慨に浸る間もなく豊前の番となる。

「じゃあな、主。現世に戻っても達者でな」
「ああ。豊前、今までよくやってくれた。ありがとうな」
「それはこっちの台詞だよ。アンタがいなけりゃ、俺は此処には居ねえ」
「そうか。次の主が、彼女だといいな」
「……そうは上手くいかねえだろうよ」

バレてたか、と肩を竦める豊前にははは、と笑った主は彼の本体を手にし静かに印を切る。審神者と刀剣男士を結ぶ糸が、解けていく。自分が肉体の維持が出来なくなっていく様を感じ取りながら、移動組である籠手切と桑名に向かって大きく手を振った。

「じゃあなお前ら!新しい所でも達者でな!!」
「りいだあ!!今までありがとうございました!!りいだあとご一緒出来て私は幸せ者です!!」
「じゃあねぇ、豊前。豊前こそ新しい所でも頑張ってね」

感極まったようにぶんぶんと両手を振る籠手切とは対照的に相変わらずマイペースに片手を振る桑名に一つ笑ってから、完全に身体が解ける寸前に豊前は審神者の傍らに控えていた歌仙に視線を投げた。主の初期刀として選ばれ、最後まで供をする自分たちの総隊長。もう豊前の身体は肉体を保てず胸位から下は完全に消えており、残った肉体も感覚が消失している。それでもと豊前は感覚のない右手を歌仙に差し出した。気付いたように歌仙も己の左手を差し出す。

「あるじを、頼むぞ」
「……ああ、任せたまえ。今までご苦労だったね、豊前江」

とろけるような歌仙の微笑みとその言葉を最後に、豊前の肉体は完全に消失した。審神者の手の内には、霊力の繋がりを切り離され沈黙した一振の豊前江がしっかりと握りしめられていたのだった。……もう審神者の称号を手放す男は、目の前に膝を付いた遣いの者にその打刀を確かに、手渡して、手放した。





肉体が消失しても、ある程度であれば自分の周りの事は把握できる。
刀に戻った豊前江や他の政府所属になる事を望んだ刀を携えて本丸を去り、本部へと帰還した遣いの者は迷う事無く迷路のような内部を進んでいく。そうして審神者や刀剣男士の喧騒が消え去り、静まり返った廊下を阻むように巨大な鉄の扉が現れた。回転式の取っ手が付いたそれは明らかにこの先に重要機密や価値ある物をしまい込んでいます、と言いたげな厳重さ、頑丈さであり豊前江を抱えた者とは別の遣いがガラガラとハンドルを回し開けていく。そうして踏み込んだ扉の奥、矢張り重そうな鉄扉を押し開けて刀を抱えた遣いの者は入っていく。
そこは、政府刀になる事を望み新たな主が訪れるのを待ちわびる刀達が眠る場所であった。天井まで届くような桐棚が扉がある壁意外三面全てに置かれていた。引き出しは全て正方形の箱で、よく見れば「明石国行」「松井江」「陸奥守吉行」「石切丸」「薬研藤四郎」……と書かれた紙が引き手の上に張られている。一人が空の引き出しを持って中央の机に置くと、もう一人が何処からか取り出した触りの良い布で刀を包み、箱に入れ、持って来た者が元の場所に戻す――そうやって、刀達は眠りについていく。審神者の時と同じく、豊前の番もあっという間に訪れ同じようにシルクのような布で包まれた彼は少しばかり高い場所に戻された。暗い場所に置かれれば何も見えなくなり、暫くすれば彼らは立ち去ったのか静寂が続く。こうなっては起きている意味がない、と豊前はその瞼を降ろした。

それからは、夢か現か。そのような毎日であった。
時折人の声がして起きれば、新たに政府所属の審神者適正がある者が刀を選び取りに来たか、刀剣の管理をする者が様子のチェックに来たかの大抵どちらかであった。刀は新しい者が入れば新たな主を得て出ていく者も居る。少なくとも明石国行と大倶利伽羅、数珠丸恒次に蜻蛉切、鯰尾藤四郎は出ていくのを声で聞いた。立ち去るのをあやふやな意識で見送りながらまた微睡む、のを繰り返して早幾日、幾月。

突如、金木犀の香りが鼻腔を擽った。
ぱちりと意識が覚醒して意識を研ぎ澄ませる。誰かが近づく気配。足音は、二つ。重い出入り口の鉄扉を開ける音。そして、うわあと感嘆と戸惑いが入り混じったような声がする。豊前様、と己を呼んだ彼女の声だった。マジかよ、と声にならない声で豊前は心を震わせた。一度は願いながら、そう上手く行くはずがないと半ば諦めていた金木犀の彼女が、確かにそこに居た。間違えるはずも無かった。柔らかな栗色の髪を靡かせ、丸っこい翡翠の瞳を持った彼女の声が、確かに部屋の中心から聞こえていた。

刀は、主を選べない。けれど、欲が出てしまった。彼女に選ばれたいという、彼女の善性に魅入られた刀としての欲が、本体から滲み出た。それは霊刀でも何でもない豊前でもどうしてなのか分からないが、その高揚した気持ちに当てられるように桐箱がカタカタと音を立てて震えて欲を示す。何、と聞こえた彼女の声は酷く動揺していたが、認知された事でその揺れは更に大きくなる。俺を選べ、俺をあんたの刀にしてくれ。俺にあんたの事を、主と呼ばせてくれ。その願いが聞き届けられたかのように、此方へと近づく気配がした。

「――だって、まるで自分を選べって言っているみたいじゃないですか」

心が、震える。
ポルターガイストが何だどうだと理由を並び連ねて怖い、とは口にしたがそれよりも、ここまでされたら選ばない訳にはいかないという言葉に少し笑ってしまった。あぷろーち、とやらが過ぎたかという自分自身への自虐の笑いと、怖いなら逃げて別の刀にしたっていい筈の彼女の真面目さに笑みが零れ落ちたのだ。あの頃もそうだったが、彼女は恐らく、とても真面目で誠実な人間だ。新人審神者の受付や上官の案内、審神者に対する普通の案内とやることだらけの本部受付で待合室に居る者まで気遣いが出来る者はそう多くない。何かおかしな点に気付いたとしても自分の抱えた業務を言い訳に見て見ぬふりをしたっておかしくはない。恐らくきっと彼女は真面目な質なのだろう――といつしか、嘗ての主が話していたのを思い出す。暫く会っていなかったが、その真面目さも誠実さも何も変わらず、善き人間の性質を保ったままで嬉しくなる。
そうしている間にも彼女は豊前が入っている桐箱を何とか取り出して両手に抱え、持ち上げた彼自身を包む布を丁寧に剥ぎ取っていく。そうして久々に光明の下に晒された一振の刀に恐る恐る手を伸ばし、素手でその鞘を握りこむ。流行る気持ちがその瞬間に、桜吹雪として現れた。

かちりとピースが嵌るような感覚と共に、彼女と豊前の間に霊力の糸が結ばれる。金木犀の霊力を流し込まれ、彼の身体は桜吹雪の中で再構築された。黒い靴の爪先が板張りの床を叩き、江特有の濃緑のジャケットが桜吹雪に翻った。右肩に下げた防具と袖印の重みがもう懐かしい。ぐしゃりと左手で前髪を掻き上げてから少しだけ髪型を調えて、うわあという声と共に尻餅を付いたままの新しい主と向き直る。ぺたんと座り込んだ彼女はこれだけは傷付けまいとばかりに彼の本体を大事に両腕に抱え込んだまま、呆然と豊前を見上げていた。そんな姿を見て、更に確かにそこに在る霊力の繋がりにゆるゆると彼の口角は持ち上がりにい、と満面の笑みを形作る。

「――いつか来てくれるかもしれねえって、あんたをずっと待ってたんだ。俺は豊前。郷義弘が作刀、名物、豊前江だ。やーっと会えたな、主!」
「ま、ってた……?」

満面の笑みを眩しそうに見つめながら待っていた、の言葉に困惑する彼女は差し出された掌にあっ、と慌てて握りこんでいた刀を渡した。ぱちりとルビーの瞳を瞬かせた豊前はそうだけどそうじゃなくて、と受け取り腰に差し直してからまた掌を差し出す。二回目にして尻餅を付いたままの自分へ助け起こそうとしてくれている掌だと気付いて慌ててその大きな手に自分のものを重ねれば、ぐいっと腰を支えながら引っ張り上げてくれる。

「でーじょーぶか?ちょっち気持ちが逸っちまって。吃驚させたな」
「あ、えっと、大丈夫、です。怪我もしてないし」
「そうか!じゃあこれから宜しくな、主!」

主、という言葉にまた一つ驚いたように翡翠の瞳を見開いた金木犀の彼女は主、あるじ……と繰り返して、うんと頷く。まだその瞳、口ぶりは戸惑いが多く見えていたがそれでも、豊前を見つめ直したその視線だけはどこまでも真面目で、真剣で、真っ直ぐな、豊前が好感を持った彼女そのままの視線だったのだ。

「此方こそ、これから宜しくお願いします。豊前、江」
「おう!宜しく!」




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