未だやり残した事が有るのなら済まして来なさい。門番になれば虚無界の門から離れることは出来なくなるのですから、と言うメフィストの言葉に頷き部屋を出る。特にやり残した事なんて思い浮かばなかったけども、最後になるんだったら行きたい場所がある。どうせならと色々な場所に寄り道をしながら、燐は中庭へと向かった。 騎士團本部の中庭は燐が祓魔師になってから落ち込んだことや、嬉しいことがあった時に良く行く、唯一安らげる場所だった。此処があったからこそ耐えられたことだってあるはずだと燐は思う。大きな木の傍にあるベンチは、燐がいつもの定位置にしている場所だ。ゆっくりと腰掛けて、ほうっと息を吐く。勝手に決めて、勝手に実行に移してしまった、今の状況は雪男にとって衝撃的だっただろう。申し訳無いことをしたとは思うけれど、反省はしていない。雪男にとっても皆にとっても悪い事ばかりではない、寧ろ良いことのほうがずっと多いはずだ。自分が普通の人間だったならば、万々歳で喜ぶだろう。悪魔が居なくなれば、魔障で苦しむ人も格段に減る。そんな優しい事のために力を使えるならば、燐にとっては至極幸せだった。 「これでいいんだ」 幸せだと思う反面、ちいさな魚の骨のように、胸の奥に突っ掛かったものに気が付いてはいた。だが、気のせいにしてしまいたかった。それについて考えてしまえば、なにもかもが振り出しに戻ってしまうと本能的に察していた。だから自分に言い聞かせるように何度も繰り返す。これでよかったんだ。これでよかったんだ。これで、 「ほんまに、それでええん?」 自分しか居ないはずの中庭に、自分以外の声が響く。幻聴かと確かめるように俯いていた顔を上げれば、そこには法衣を纏った、良く見知った人物が立っていた。 「…志摩、どうして、」 見慣れたピンク頭の青年、志摩廉造の姿に頭が真っ白になった。どうしてここに居るんだ、どうして自分の独り言を聴いていたのか、何故、何故。 「何でって…思ってること全部声に出てはるよ。俺も上級祓魔師やからな、明陀の代表として今回の集会来ててん。ほんならあれや…燐くんがなんややらかす言うから。」 へらり、と笑いながら紡がれた言葉は、半分程度しか頭に入ってこなかった。茫然としたまま固まった燐に、志摩は溜め息を吐いた。 「一年振りの再会やのに、こんな状況やなんて俺ら呪われてるんちゃう?」 軽口を叩きながら頭をぽんぽんと叩かれれば、何処と無く安心して、泣いてしまいそうだった。それを隠すように急いで俯いた燐に、変わらないなあ、と志摩は心の中で苦笑した。 「なあ、燐くん。もっかい聞くで。…ほんまに、これでええん?」 先程の質問を繰り返し問われ、大袈裟なくらいにびくりと身体を震わせてしまう。今日に限ってしつこい志摩は、何を考えているのか分からない。 (そういえば志摩が怖いなんて、初めて思ったな) 燐がそんな事を考えている時、志摩は志摩で自分でも驚くくらいに焦っていた。燐が困惑しているのも理解していた。けれど。 (しつこいやろけど…今聞いとかな後で後悔すんの、分かっとるしなあ。) ぎゅっと拳を握り締め、燐の返答を辛抱強く待つ。こういうことに対する返答を急かしたりしては駄目なのだと、志摩は知っていた。ベンチに腰掛けた燐の隣へ、軽く断りを入れて座り込む。どれだけ時間が掛かっても、面倒ごとにできるだけ関わりたくないと思っていても、こんな燐をそのまま放置することなど志摩には出来なかった。 無言のまま、数分、数十分の時間が過ぎる。 俺には話せんことなんやろか、と真剣に考え始めた頃に、漸く小さな呟きが聞こえた。 「…ごめん、っ…ごめ…」 それは掠れかけた謝罪の言葉。 「何を謝ってるん?」 「…ごめ、志摩…には、迷惑掛けねえから…」 「は?だから、なんのこと…」 意味が分からず首を傾げる。 「大丈夫、ちゃんと、封印するから」 安心してくれと、その言葉と共に突然燐が立ち上がり、微笑んだ。え、そんなこと聞きたいんやない、と志摩が声を掛ける間もなく、燐は目の前から消えた。実際には近くにあった建物の屋根に飛んだのだ。追い掛けようにも悪魔相応のとんでもない脚力を使われてしまえば、打つ手がない。後を追う術を持たない志摩は顔をしかめて舌打ちする他なかった。 「燐くんの、あほ…!」 ほんまあほや、とベンチに拳を叩き付けた。 結局、志摩の言葉から宛もなく逃げ、たどり着いたのはメフィストの元だった。もういいのですか、と問う相手に対し半ば八つ当たりのように早くしろだの、お前の準備が遅いからだのと、怒鳴り付けてしまった。悪いとは思ったが謝る必要などないだろう。だって相手は悪魔でメフィストだ。こんな子に育てた覚えはない、と肩を竦めるメフィストを思いきり睨んでやった。 「まあ、そう怒らなくても良いでしょう?たった今、虚無界の門を創る場所が決まった所です。貴方がそこまで言うのでしたら、今すぐ始めましょう」 悠然と紅茶を飲みながらそう告げる彼に、なんでもいいから早くしてくれと頼みこむ。ふう、とメフィストが息を吐く。 「本当に世話の焼ける弟だ」 紅茶のカップを適当に投げると同時に、メフィストが数字をかぞえる。あわせてパチンと指を鳴らすと、辺りの景色が突如変わった。ああ、魔法で移動なんて、便利すぎる。今から封印になりにいく自分に今更簡単な移動手段など必要性も糞もないだろうが、そんな便利なものをメフィストだけが使えるなんてやはり狡いとは思った。 (そんなことより、此処どこだ) 辺り一面、樹木ばかりで目新しいものはなにもない。北も南も分からずきょろきょろと辺りを見回していると背後からくすくすと笑い声が聞こえた。 「…何がおかしいんだよ」 「いえいえ、辺りを見回したとしても木以外のものはありませんよ、と思いましてね。」 「悪かったな!虚無界の門創る場所なんて聞かされてねえから知らなくて当たり前だろ!…つか、此処どこ?日本だよな…?」 「ええ、一応日本国内ですよ。その方が貴方も落ち着くでしょう?」 当然そうですよね?と返事はイエスしか受け取らない姿勢に、乾いた笑いが洩れた。確かにイエスなのだが、緊張感の無さに笑いしか込み上げてこないとは。メフィストにそんなものを期待していた訳ではないけれど、少し予想通り過ぎた。アホだバカだと一人でひとしきり笑って、暫くしてから冷静になる。そんな自分も大概アホだなと思った。 でもこんな馬鹿騒ぎも最後かと思えば、もう少し笑っときゃ良かったなとも思うなんて、人は不思議な生き物だ。 「さて、そろそろこれからについての説明をさせて頂いても構いませんか?馬鹿騒ぎをしてこの場所に虚無界の門を創ったのがバレてしまっても困りますからね。」 珍しく真面目なメフィストの言葉に短くああ、と答えた。 「私が地面に書いてある魔方陣が見えますか?というか見えていないとそれはそれで困りますが。まず始めにその魔方陣の中央に倶利伽羅を突き刺して下さい。」 メフィストが指差す方向を見れば地面に魔方陣らしきものがあった。くれぐれも消さないように慎重に頼みますよ、という通りに魔方陣の線を避けて中央辺りまで行き、背負っていた倶利伽羅を抜いて突き立てる。 「で、次は?」 「貴方の血を媒介に虚無界の門を召喚します。出来るだけ沢山、死なない程度に、血液を流して下さい。」 「死なない程度って…大雑把過ぎじゃねえの?」 「じゃあやめますか?」 「……それも今更だ」 腰元のポーチから小型のナイフを取り出す。ほとんど、というより全くといったほうが正しいくらいに使った事がないそのナイフの刃は、新品同様に輝いている。 (血で汚すと錆びちまうんだよなあ…) 雪男とお揃いで買ったそれを汚してしまうのに、なんとなく躊躇してしまう。けれど、封印になれば意識など無くなってしまうのだとメフィストが言っていたのだからもう自分が使うことは無いだろう。 (雪男、ごめんな。) 心の中で詫びながら、左腕にナイフを突き刺した。鋭い痛みが身体に走る。じわりじわりと血が零れ出す。ナイフが突き刺さったままだと塞き止められている分血の出が悪い。痛みを堪えつつナイフを抜き去れば、噎せ返るような鉄の匂いと、多量の血液が腕を伝い、魔方陣の上に流れ落ちた。ぽたぽたと地面に染みが広がっていくと同時に、一定量を越えた辺りで、段々と地面が漆黒の煙に包まれ始める。あの、十年前、修道院で見たときと同じだ。 「では、後は私の仕事です。貴方はそのまま突っ立っていて下さいね☆」 メフィストが傘を動かし、何やら文字を書いていく。ああ、これで終わるのか。俺の人生、意外と呆気なかったな。雪男と志摩にはわるいことをした、また怒られてしまう。 「…いさん!」 「…んくん!」 そうだ、こうやって少し怒ったように名前を呼んで…、 「――兄さんっ!」 「…っえ、…!?」 幻聴だと思っていた声が、すぐ傍で聞こえた。声の方向へ首だけを動かすと、雪男と志摩が、息を切らして立ち尽くしていた。 「おまえら、なんで…っ」 「中庭におったはず、やのに、なんやいきなり飛ばされてなあ…。近うに若先生も倒れとるさかい、ほんまびっくりしたんやで…?若先生起こしとったら、理事長の声聞こえて来て、こっちへ来てくださいー、言うから声の方向こうたら…これや。」 ぜぇぜぇと荒い息のままウインクする志摩に、そんなアホな話が有るかと思う。…いや、メフィストならやるだろう、確実に。じとりと視線を向ければニヤニヤと笑ったメフィストがこちらを見ていた。 「おま…っ、…ついていい、嘘と…ついちゃいけない嘘があるだろ…っ!これどうすんだよ、冗談でやってみたら開通しちゃった☆じゃ済まねえぞ!」 「おや、私は本気ですよ?きちんと結界も張ってありますから彼等はあそこから先へは入れないはずです。」 「そういう問題じゃねえんだよ…!」 キッとメフィストを睨み付けながら、痛みと失血にふらふらとする頭を支える。 「志摩、雪男、いいから、帰れ。何が起こるかわかんねえんだから」 「嫌だ」 「いいから、帰れ!お前らにはやんなきゃなんねえことが、まだ、あるだろ!」 「燐くんに言われたないなあ、それ」 くすくすと笑う志摩に、怒りのオーラを隠そうともしない雪男。もう会うことはないと思っていた二人に会えたのは、怒鳴って喚きながらも、本当はすごく嬉しかった。 「さて、これが本当に最後です」 会話を遮るようにメフィストがシルクハットの鍔を持ち、告げる。 「奥村君、貴方は虚無界の門を封印する番人になる、それでいいんですね?」 「ああ、…俺は、あの暖かい場所を、ずっと守りたい。」 「……貴方には冷たい事のほうが多かった、あの場所を、ですか?」 「理解してくれない人だって、そりゃ沢山居たけど、優しい人も沢山いた。だから良いんだ。」 「…――分かりました、では鍵を掛けます。今一度確認しますが、一旦鍵が掛かってしまえば貴方は封印が解かれるまで永遠に眠りにつくことになります。…本当に宜しいですね?」 まるで燐が何かの契約書にサインをするかのように確認を取るメフィストに、しっかりと頷き応える。 志摩と雪男が必死に叫んでいるのが聞こえたが、何を言っているのか、知るのが怖くて全神経をメフィストの声だけに集中させる。二人の言葉を聞いて、それが優しい言葉だったら、駄目になってしまう。 「では。…――アインス、ツヴァイ、」 ドライ。 最後の数字を聞く前に、燐の意識は暗い闇の底に消えた。 |