彼は所謂天才なのだと思う。それは周囲の大人たちが言い出したことではあるけれど、こればかりは的を射ていた。

 彼は天才なのだと思う。こと、演奏会場に於いては。
 拍手に包まれる会場は彼を望んだ観客が作り出す期待と熱意だ。その中に紛れる本人の悩みや葛藤を度外視して騒ぎ立てるろくでもない大人の言葉は、きっと彼の中の何かを崩落させて蝕んでいくのだろう。

 弦から離れていく弓が、肩から下ろされるヴァイオリンが、絹糸のようなライラックグレイを揺らすその瞬間を切り取って、入江奏多は男を綺麗≠ニ呼んだ。
 その本心を口に出せば怪訝な顔をするだろう彼の造形が取り上げて綺麗かと問われればそうではなく、むしろその他大勢に紛れられる普遍的なものであることを理解した上で、それでも綺麗≠ニいう言葉を当て嵌めてしまうのは、その瞬間が一種の造形美であるからなのだろう。

 丸いフレームが気に入っている眼鏡を押し上げ、入江は小さくため息を零した。

「……何、ため息吐くほど気に入らない演奏聞きに来てたわけ?」

 ヴァイオリンケースを片手に顔を覗き込んだ先程の奏者──奏音ういの表情は僅かばかりの倦怠感を訴えている。

「……戻らなくていいのかい?」

 彼の演奏をまだ聞きたいという観客がいることを予測した入江が問いかければ、奏音は「演奏会への抜擢は純粋に嬉しいし観客あってのものだが、おれはおれの意志と体調を優先する」と、バッサリ帰宅を宣言した。
 確かに彼は朝から体調があまり良くなかったと思い返し、みんなお金を払って聞きに来ていると言おうとして、今回の演奏会は入場料も見学料も取らない破格の設定であったことも思い出す。言葉は悪いが演奏会の出演など初めから体調不良を原因に断ってしまえば良かったのにという心持だ。
 勿論、奏音が好きなことを思いのままにやるというそれを咎めるつもりはない。
 しかし入江はその意思と同量──或いはそれ以上に奏音が心配だった。この感情に名前を付ける気にはなれないし、安易に名付けてしまえば取り返しのつかない事態に陥ってしまう気さえする。その小さな不安が持ち得た臆病な躊躇いには苛立ちすら沸き起こり、入江は反射的に舌を打った。

 ──奏音ういは異質か。
 仮に彼を異質だとして、異質たらしめる要素は一体何であろうか。

 果たして自分は普遍的な彼の何に目を惹かれたのだったか。初めて認識したのは小学生の頃、焦がれ始めたのが中学で、ようやく話せるようになったのもその頃だったはずだ。
 二つ上の学年にいる灰髪のヴァイオリン奏者はそれなりに有名で、どこからともなく聞こえてくる進学先の話しはよく耳にした。けれどその信憑性のない噂話には耳を傾けなかったし、進学先がどこであろうと追いかける気など毛頭なかった。

 入江奏多は曖昧で不明瞭な感情より、テニスを選んだのだ。追い掛けたつもりはない。

 偶然にも同じ進学先で、順調に進んでいれば三年生であるはずの奏音が出席日数不足で二年生に留まっていただけ。無事三年へと上がれた彼はやはりのほほんと危機感もなく行方をくらまし、ついには同学年という願ってない好機が訪れただけである。
 けれど入江はそれを幸運とは思っていないし、奏音が意図的に留年していたわけでもない。本当に、だだの偶然で、その偶然に胡坐をかけるはずがなかったのだ。

 舌打ちした挙句目も合わせない入江の態度に顔を顰めた奏音は、徐に上着のポケットから飴を取り出して投げつけた。

「何に苛立ってんのか知らないけど糖分足りないんじゃないの」

 そう言ってくるくるふわふわとした頭髪にさくりと刺さってしまった個包装の飴を見つめながら、新しく取り出した飴を開封して口に放り込んだ。苦笑いしながら頭を掻いた入江の足元にそれと同じものがころりと転がる。
 小さく笑った奏音に何を落としたのだろうと視線を動かせば、金色の袋に大きく書かれた特濃金色かないろミルク≠ニいう見慣れた文字が目に入る。入江が見慣れていたのは奏音が普段から持ち歩いている趣向品だったからだ。

「味が変わったって落ち込んでなかった?」
「……他にいいの見つからないからな。機嫌は治りましたか? 入江くん」
「別に怒ってたつもりはないよ」
「じゃあおれ帰るから。最後まで聞いてくならさっさとホール行けよ」

 ──彼は、奏音ういは異質であり天才であり、自分に正直だ。けれどボクと共に歩いてくれる、一介の高校生に過ぎないことも知っている。

「いや、ボクも帰ることにするよ」

 さらりと揺れたライラックグレイに入江奏多は微笑んだ。
 音楽に愛された彼はきっと多くの凡人から否応なしに構われて愛を受けてきたのだろう。
 嘘のつき方も知らぬまま、反抗の仕方も分からぬままで。

 そうして綺麗な彼は、ゆっくりと自壊していくのだ。


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