トラユリ

 バイトも人付き合いも何もないこの世界で暮らすうちに、時間の感覚がなくなってしまった。私がこの世界に来てから、どのくらいの時間が経ったのだろう。
 起きてはヨノワールに抱かれて、眠ってはまた起きる、それを繰り返すだけの日々が続いていた。
 何度抱かれても、私は、ヨノワールがなぜ私に性的な行為を求めるのかが分からなかった。
 花瓶の花が枯れ始めると、ヨノワールはどこからか新しい花を持ってきて私に贈ってくれた。優しい目で私を見つめてくれたし、私が微笑めば本当に嬉しそうに、頭を撫でてくれた。そんな彼の様子は、私のことが嫌いだから乱暴をしている、という風には決して見えない。
 彼が私を抱く理由を知っていれば、彼の心を癒す方法があったのかもしれないと、後になって私は悔やむことになる。
 それは、花瓶の花が何本枯れた頃だろうか。

「…おは、よう」
 今日も、私が起きるとすぐにヨノワールが部屋に入ってきた。ヨノワールは毎日、私が眠る頃になると出ていき、私が起きる頃になると帰ってくるのだ。
 全身が怠い。ヨノワールの方を向くために体を起こそうとしたが、諦めてごろりと横を向く。
 軽い吐き気を感じ、額に手を当ててみると、少し熱っぽいような気もする。この世界にいると、自分が霊体であったことを忘れてしまいそうだ。
「私、そろそろ、成仏したいな」
 本心を、堪えきれずにぽつりとこぼす。ヨノワールは、怒るだろうか。あの闇の中に放り出されてしまうだろうか。私は、もうそれでもいい、とも思い始めていた。
 一度、この日々に嫌気がさして逃げ出そうとしたことがある。闇の中に身投げでもなんでもしてやる、と。私がドアノブを回すと、がちがち、と途中で何かに引っかかった。いつもヨノワールが出かける時に施錠の音がしていたことを思い出し、ドアノブの内側を確認するも、全く鍵が見当たらなかった。
 今思い出しても背筋が冷たくなる。
 あの施錠は、外から何者かが侵入しないようにするためではなく、私が逃げ出せないようにするためのものだったのだ。ヨノワールがどうしてそこまでして私に執着するのかは分からなかったけれど、それからはここに来てからの彼の行動全てが「不気味」に思えてならなかった。
「私、ずっとこんな状態を続けていくのは、お葬式を上げてくれた家族にも申し訳ないよ」
 私の言葉に、ヨノワールはわずかに目を細めた。そして、私に手を伸ばす。
 殴られる、と感じた私は咄嗟に腕で頭を覆い目を閉じる。しかし、予期していた衝撃はやってこない。薄っすらと目を開けると、彼は哀しそうな目で、私に手を差し出していた。
 大きな手のひらに、凛々しく咲いた一輪の花。黄色い三角形のように並んだ大きな花弁が、赤黒い色の斑点をを囲んでいる。
 その花を見て、怖い、と思った。
 私を飲み込もうとする怪物の口のようだ。食べられてしまう、そしてあんな風に、血の染みを残して、

「いやっ!!」

 ばしん、と。乾いた音が鳴った。

 ここに来てから初めて私に明らかな拒絶を示されたヨノワールは、身動きもせずに立ち尽くしている。床には、私に叩き落された黄色い花。
 親友を、家族を、たった一人のパートナーを、私は拒絶してしまった。けれど、私よりもずっと、ヨノワールのほうが苦しいはずだ。だって彼は、親友に、家族に、たった一人のパートナーに、拒絶されたのだから。
 私は俯く。ヨノワールの瞳の奥にある感情を知るのが、怖くてたまらなかった。
 何も言えなかった。迂闊なことは言えないし、今更彼の名前を気安く呼んでいいとは思えなかった。
 俯く私の視界から、ヨノワールの黒い体が見えなくなっていく。
 私とヨノワールが、離れていく。
 ばたん、と重い音が響く。施錠の音はしなかった。
 最後まで、私は彼の顔を見ることができなかった。

トラユリ
(私を愛して、助けて)

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