まっさらの姫君 | ナノ
ロ記憶のゆくえ


「自分の名前は分かるかい?」
 白衣の男の人がベッドサイドの椅子に腰掛けて、私に問いかける。どうやらここは病院で、私は数日前にここに運ばれてきたらしい。
「ナナシ…です」
 ぼんやりと靄がかかった頭で、ゆっくりと咀嚼するように私は答える。
「年齢は?」
「えっと…」
「出身地は?」
「…」
 男の人は矢継ぎ早に質問を重ねる。それに答えられなかった私は、決して勢いにひるんでしまったわけではない。
 …思い出せなかったのだ。
「この人のことは?」
 先ほど私の名前を呼んだ女の人のことを、男の人が手で指し示す。
「…いえ、わかりません」
 女の人が目を見開いてはっと息を飲む。その瞳がまた泣きそうに揺れているのを見て、私は後ろめたさを感じた。
「この石に覚えは?」
「…ありません。大事なもの、だったような、気がする…」
 お腹に抱いたままの石を撫でる。表面は確かにひんやりとしているのに、何故か生き物のあたたかみのようなものを感じる不思議な石だ。得体は知れなかったが、どうしてかこの石を手から離す気にはなれなくて、こうしてずっと抱え持っている。
「そうですか…答えてくれてありがとう。きっと疲れただろうから、君はもうしばらく休んでいるといい」
 男の人は優しい声で私にそう言うと、椅子を立つ。そして女の人に向き直る。
「脳に外傷は見られませんでしたので、ショックによる一過性のものだと思われます。…気持ちが落ち着けば徐々に回復するかもしれません」
 呆然としていた女の人が、その言葉ではっと我に返る。
「そ、うですか。何から何まですみません、ありがとうございます」
 軽く頷いた男の人は、一度だけこちらに目をやってから部屋を出て行った。
 白い部屋に残されたのは、私と女の人だけだ。その女の人は、閉まった扉の方をぼんやりと見ているので、部屋は沈黙しきっている。
 手持ち無沙汰になった私は、手元の石をしげしげと眺めてみる。金色に透き通っているこの石は、ただ金色なだけでなく、よく見ると中に黒い何かが浮かんでいた。
 蛍光灯の光が石を貫き、私の着ている薄緑の服の上にきらきらと金色を散りばめる。ああ、きれいだ。
「…あの、ね」
 石にぼうっと見惚れていた私に、女の人がようやく口を開く。

 石から目を離しそちらを向いても、女の人の表情は俯いていて分からなかった。

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