きみのこえはきれいだよ
ニョロボンとコーラス練習

「うええん…ぐす…ぐすっ」
 小さな泣き声が扉から漏れる部屋の前で、一匹のポケモンが立ち尽くしていた。そのポケモンの名前はニョロボン。泣き声が聞こえてくるこども部屋の主であるナナシの、おかあさんのポケモンだ。
 扉をノックしようと伸ばしかけたニョロボンの手は空中をさまよい、どうやら声をかけるべきか迷っているようだ。
 夕飯にもおりてこず、学校からかえってからずっと部屋にこもりきりのナナシを心配して、おかあさんがニョロボンに様子を見に向かわせたのだ。
 夕飯のあたたかな香りももうそろそろ薄れてきている。ニョロボンはようやく決心がついたのか、とびらを二回、軽くノックした。ニョロボンのもっちりとした指でも、どんどんと、たたく音は鳴らせるのだ。
「だれ…?」
 嗚咽交じりに問い返してくるナナシに、ニョロボンは鳴き声で自分であることを示す。
「ニョロボン?いいよ、はいって」
 ニョロボンがとびらを開くと、ナナシはちーんと勢いよく鼻をかんでいた。

 それで、なにがあったのか?…そう問い詰めて、誰かに泣かされたと言うならば、殴りに行ってやりたいところだ、とニョロボンは思う。しかしニョロボンの言葉では、ナナシに質問をすることは難しい。それに、なだめるのを優先してあげようという優しく穏やかな心も、ニョロボンは持っていた。
 ニョロボンの白い指先がナナシの頬を撫でると、ナナシはくすぐったさに少しだけ笑った。涙のあとを拭おうとして撫でているようだが、ぴとぴととしたしめっぽい指では余計に頬が濡れてしまうことに気づき、ニョロボンは拭うのを断念して手を下ろす。
「…あのね、ニョロボン、きいてくれる?」
 ニョロボンがそばにいることで少し落ち着いたのか、ナナシはそろそろと話し始める。おかあさんにはないしょだからね、とニョロボンの顔を窺う真っ赤な目が痛々しい。
「あのね、あした学校でね、コーラス大会があるの。クラス別で練習して、きそう大会なんだけどね」
そのことはニョロボンも知っていた。最近は明日のその大会のために毎日遅くまで練習があったらしく、ナナシはいつもへとへとだった。暗くなってしまった日は心配で、ニョロボンとおかあさんが迎えに行ったりもしていたのだ。
「あのね、ナナシね、歌が下手でね…だからその、あのね…」
 ナナシの声が、徐々に沈んでくる。語尾に至っては、よく聞き取れないほどだ。
「ナナシ、へただから、本番、おまえだけ歌うなって…クラスのじゃまだって…言われて…」
 落ち着いてきた感情の波がふたたび揺さぶられたのか、ぽろぽろと大粒の涙を降らせながらナナシは話す。
「いっしょう、けんめい、やってたのに…じゃまとか、うたわないなんて、そんなの…うあああん!」
 ついに泣き出してしまったナナシの背中を、ニョロボンがとんとんとたたいてあやす。
 練習の後に表情が曇っている日はあったが、ニョロボンは疲れのためだと思っていた。事情に気付けなかったことを悔やみながら、ナナシを精一杯慰める。
 ふと、ニョロボンは思いついた。
「ニョロボン?何してるの?」
 ニョロボンがナナシのカバンに手を入れ、ごそごそと何かを探している。
「…あ」
 ニョロボンが取り出したのは、ひと綴りの楽譜だった。
「え、なに、するの?」
 余程楽譜に嫌な思い出が多いのか、ナナシの顔がわかりやすく引き攣る。ニョロボンはそんなナナシの顔を一目だけ見やって、楽譜に目を落とした。
 ニョロボンが息を吸い込む。

「〜♪」

 途端に彼の喉から流れ出した声の旋律は、歌詞はないがとても美しく、精密だった。ナナシはぽかんとその様子を眺める。
 高らかに綺麗な声で歌い上げるニョロボン。楽譜と怖い顔でにらめっこするニョロボン。
 ナナシは可笑しくなって、吹き出してしまった。
「ぷはは!ニョロボンすごいね!けどにあわないよー!」
 ナナシの言葉に、ニョロボンはむっとした顔で歌をやめる。そしてぺたぺたとナナシに歩み寄ると、楽譜の一番はじめを指差し、次にナナシを迷いなく指差した。
「えっ、うたえって、こと?」
 そうして一人と一匹のコーラス練習は始まったのだった。

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「あらあら、はじまったわね」
 階下でソファに座りながらコーヒーを啜るナナシの両親。一人と一匹の練習の様子は、そこまで響いて聞こえていた。
 おかあさんは、コーラス練習から帰ってきたナナシの様子を見て、なんとなく理由を察していた。だからこそ自分で様子を見に行くのではなく、ニョロボンだけに向かわせたのだ。
「なつかしいわねぇ」
 しみじみと言うおかあさんに、おとうさんもうんうんと頷く。
「そうだなぁ。おまえも昔はひどい音痴だったものな、血は争えないのかなぁ…いて、いてて」
 おとうさんのんきな顔が、おかあさんに足を踏みつけられた痛みで引き攣る。二階からのふたつの歌声は、だんだんずれることが少なくなっていた。
 
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「らー、らー!らー!」
 一通りの練習を終えて、最初の音の確認をするため、ナナシは大きな声を出していた。ニョロボンはそれを聞き、もう少し高くするべきなのか低くするべきなのかを、指で上下を指し示して教えている。
「らーー」
「ーー♪」
 ナナシの声と、ニョロボンの声が重なる。今までは同じパートを歌っているのになぜか絶妙なハーモニーが生まれてしまっていたのだが、今度はぴったりと重なり合って響き合う。やはりたまには音を外してしまうものの、ニョロボンが何度も根気よく繰り返して音合わせをしたからか、ほとんど狂いがない。
「…!やった!できたよ!」
 ナナシはニョロボンの手を取ってぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「これならきっと、じゃまじゃないよね!」
 嬉しそうに、だけどまだ不安そうに問いかけるナナシに、ニョロボンは大きく力強く頷いた。
「もう一回、もう一回だけ歌おうよ!」
 今までの歌嫌いはどこへやら、ナナシは上機嫌に歌い出した。
 弱々しい泣き声が響いていた部屋は、今は明るく楽しそうな歌声がいっぱいいっぱいに広がっていた。

きみのこえはきれいだよ
(だから泣くよりも歌っていてほしい)


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