おやすみなさいいとしいひと
 おれのトレーナーであるナナシは、「不眠症」になってしまったのだという。

「ゲン、ゲン」
「大丈夫だよゲンガー、ちょっと休めば治るから」
 その、ちょっと休めば、ができないんだろうがよ。苛立ちを覚えるが、残念ながら俺の言葉はニンゲンには届かない。
 
 近頃のナナシは、鮮やかに朱をさしていた唇は白く乾き、目の下に隈を作って、以前滑らかだった頬はこけ、随分とやつれきっていた。
 なんとかして助けてやりたい。大好きな自分のトレーナーがこんな目にあっているのに、何もできず見ているままなんていやだ。…そう考えたおれは、ふみんという特性を持つ友人のスリーパーに、不眠症とはどういうものなのか尋ねに行くことにした。
「…あれ、ゲンガー、こんな夜中にどこか行くの?」
「ゲンッ」
 ばれた。いや、それもそうか、ナナシは病気になって以来ろくに寝られないんだ。ごめんな、そんなときに、ひとりにして。
 申し訳ない気持ちを喉の奥に閉じ込めて、ナナシの問いかけに頷く。
「そうだよね、ゲンガーは夜の方が動きやすいものね。いってらっしゃい、気をつけてね」
 ベッドの上で柔らかく微笑んだナナシの体は細く薄く、月明かりに照らされて今にも消えてしまいそうだ。
「ゲン!」
 はやく、なんとかする方法を見つけないと。おれは勢いよく返事をすると、目的地へと急ぐため、夜の闇に溶け込んだ。

 ナナシの家のすぐ隣にある家に、壁を抜けて入り込む。ここには、ナナシの友人と、そのポケモンのスリーパーが住んでいる。
 影からずるりと全身を引き抜くと、ぺたぺたと家の廊下を歩く。
『おい、スリーパー、いるか!』
『…ここだ。あまり騒ぐな、私のトレーナーが起きてしまうだろう』
 一つの部屋の前を通るとき、面倒臭そうな声が聞こえた。
『悪いな、入るぞスリーパー』
 返事を待たずに、閉じたままの扉をずずず、と通り抜ける。こういう時、ゴーストタイプは本当に便利だな。
 特性がふみんであるスリーパーはやはり眠らずに、窓から月を眺めていたようだ。
『スリーパー、さっそくだが、聞きたいことがあるんだ』
 部屋に入って早々、俺はスリーパーに切り出した。おれの必死な表情を見て、スリーパーは息を詰める。
『…なんだ。答えられることならなんでも答えるぞ』
 いつもならこんな不躾な態度をとると叱りつけてくるスリーパーだが、今回は違った。
『あのな、不眠症をなんとかする方法を何か知らないか?ナナシが、不眠症になってしまったんだ』
『不眠症か。…ふむ』
 おれの言葉を聞き、スリーパーは少し考え込む。
『ポケモンのふみんとは違って、ニンゲンの不眠症は、絶対に眠らないわけではない。…ニンゲンは弱い生き物だ。たった数日眠らなければ、それだけで死んでしまうほどにな』
 スリーパーの言葉に、おれの元々体温の低い全身がさっと冷たくなる。動揺を隠せず、足元から広がる悪寒に襲われる。
『死ぬって…じゃあ、どうしたらいいんだよ!』
『だから言っただろう。ニンゲンの不眠症は、絶対に眠らなくなるものではないのだと』
 スリーパーは、糸の先に円形の錘がついたものを取り出す。これは、スリーパーがいつも催眠術を使うのに使っているものだった。
『…そうか、催眠術!』
 ピンときたおれは、先ほどの身が凍るほどのショックも忘れて、ガッツポーズをする。
『おれゲンガーでよかった!サンキューな、スリーパー!』
『やれやれ…お前がパートナーでは隣のお嬢さんも大変だな』
 お礼もそこそこに、窓をすり抜けてバタバタと夜の街へ走り出す。…おれの変わりように呆気にとられながら肩をすくめていたスリーパーを、部屋に残して。

「ゲン、ゲン!」
 今帰ったぞ!と、ナナシのいる部屋に駆け戻る。ナナシはおれが出て行った時と同じ姿勢のままで、ぼんやりと虚空を見つめていた。
「あっ、おかえり、ゲンガー。なにかいいもの見つけたの?」
 おれのほうを向いて上半身を起こすと、ナナシは弱々しく笑顔を浮かべる。こんなに優しいひとを、死なせて、たまるか。
「ゲン!」
 催眠術を使うために、念の力を一点に集中する。おれの体にバトル中のような不穏な空気がまとわりつく。
「ゲ、ゲンガー?どうしたの、おこってるの?」
 そんなおれを見てたじろいだナナシは、少し怯えながらおれに問いかける。首を横に振って答えてやりたいが、集中力を切らすと手加減ができなくなるかもしれない。おれは黙ってナナシの目の奥を見つめて、念じる。
 眠れ、安らかに、穏やかに。
 夢なんか見なくていいくらい、ぐっすり、休んでくれ。
 瞬間、波紋のように空気が揺らぎ、とさりと優しく軽い音がした。
 
『おやすみ、ナナシ。これからたくさんたくさん寝たら、きっと良くなるからな』
 
 月明かりを浴びて眠り姫のように美しく横たわるナナシの額に、そっと手を当てた。

おやすみなさいいとしいひと


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