■ カガチとブリーダー

※有精卵の圧殺処理注意

ぐしゃり、ぐしゃり。

すりこぎで、すり鉢の中の『物体』を潰す。パリパリと固いような柔らかいような殻が割れては、中身が溢れ出る。産まれたての有精卵のため、原型はほとんど留めていないことだけが、唯一の救いだった。

ぐちゃり、ぐちゃり。

だんだんと、すり鉢の中身をかき混ぜる音に、水音が混じっていく。それは、取り返しがつかなくなっていく合図でもあった。

しかし、もう涙は出ない。人間の感覚の中で何が最も怖いかと問われれば、慣れだ、と私は迷いなく答えるだろう。

「なあ、おい、ナマエ」

ぐちゃ……と潰れかけた音を残して、私の恋人であるカガチさんの声が室内に響く。部屋の外では、何も知らずに無邪気に駆け回るポケモンたちの声がした。

「そろそろ腕、疲れただろ。貸せよ」

私から、すりこぎを奪うようにして、カガチさんは『作業』の続きを始める。
思い詰めた顔で。何かに怒っているような顔で。

カガチさんは優しいから、私一人で済む罪を、一緒に背負おうとしてくれる。それがどんなに重い罪でも、一生消えない罪だとしても。

いつからだろう。『作業』の時に、いつもカガチさんがこうやって、私の側にいてくれるようになったのは。
私がこうして受取拒否されたタマゴの後始末を任されていると知った時のカガチさんの表情は、どうだっただろうか。思い出せない。もう、何も。

■■■

『どこから持ってきたのかナゾだけど、きみのポケモンが持っていたタマゴ……やっぱりほしいよね?』

答えは、いいえ。
分かってはいた。戸惑いを見せるトレーナーに、それでも私は笑顔で食い下がる。

『いらないなら私がもらっちゃうけどいいの?』

壊れたラジオのように、私は同じセリフをトレーナーたちに繰り返す。
『いらない』という言葉に、少しだけ胸がちくりと痛んだ。

私がもらう、という言葉に安心したのか、トレーナーは少しだけ表情を緩めて、頷いた。
引き取り手のないタマゴを抱えている私の手に力が込められていることになんて、気づきもせずに。

ポケモンたちが遊び回る広場の点検をして、水辺のポケモンに水浴びをさせてから、裏手の門に入る。
そこにはテーブルがあり、その上にはずらりと……はしゃぎ回るポケモンたちの平和の数だけ、タマゴの形をした悲しみが並んでいる。

目眩がした。
ポケモンを育てるのが好きでこの仕事に就いたはいいけれど、産まれることのできないポケモンたちの悲しみを背負い切れるかと言われると、もうこれ以上は自信がなかった。

くらり、と傾ぐ視界によぎったのは、見慣れた金髪に、恰幅のいい体。

「今日も、大漁だな」
『……不謹慎ですよ、カガチさん。それに、入る時は声をかけてくださいって、あんなに言ったのに』

ぱちんと部屋の電気がつくと、回転椅子の上で行儀悪く座ったカガチさんが、こちらを見ていた。
視線は、私の胸に抱えられたタマゴへと注がれている。

「……それも、潰すのか」
『はい。里親が見つからないポケモンなんて育てても、赤字にしかなりませんから』

淡々と。私はただ上から命令された業務をこなして、営業成績を弾き出すだけ。そこに、心なんてものはいらないのだ。……そう思わなければ、私の心なんて、とっくに壊れてしまっている。

「ナマエ、そろそろ自分に嘘つくのはやめろよ」

カガチさんがぽつりと呟く。
その言葉の意味が分からなかった私は、タマゴを机の上にごとんと下ろすと、聞き返そうとした。

「お前、今日顔色悪いぞ。後はやっておくから、今日は帰れよ」

初めて、カガチさんが率先して棚からすり鉢を取り出した。
カガチさんは、無造作にごろんごろんといくつかのタマゴをつかんで投げ込むと、優しいはずのその手で、すりこぎを握り直した。

『……やめてっ!!』

一気にタマゴめがけて振り下ろそうとするカガチさんの腕を、咄嗟に全身で抱え込むようにして止めていた。
その時の気持ちは、自分でもよく分からない。止めたところで状況が一変するわけでもないのに、どうしてそんなことをしてしまったんだろう。

『だめ、やめて、だめ、お願い……』

崩れ落ちるようにカガチさんにしがみつきながら、私はぼろぼろと涙を零した。

その手は誰かを守るためにあるのに、誰かを幸せにするためにあるのに、こんなことには使っちゃいけないのに。

考え始めると下り坂になった思考は止まってくれなくて、カガチさんがいつのまにかすりこぎを手放して私の背に手を回してくれていたことにすら気付けなかった。

「やっと、俺の気持ちも、分かってくれたか?」

背中に回した手で、優しく私をたしなめるようにさする。
あたたかい。
このあたたかさを感じられないまま、冷たいすり鉢の中で死んでいったポケモンたちが、一体何匹いたのだろうか。

「お前の手は、こんなことをするためにあるんじゃない。……ポケモンたちを、撫でて、抱きしめてやるためにあるんだろ」

その言葉に全ての謎が解けた私は、その場に立ち尽くして、子どものように大声で泣き続けるしかなかった。

■■■

数ヶ月後。
私は相変わらず、ブリーダーの仕事を続けていた。

変わったことと言えば、一人同居人が増えたことと……手持ち以外のポケモンたちが、家の中をはしゃぎ回っていることくらいだ。

「ナマエ、最近こいつ食欲増してるんじゃないか?」
『ううん、その子はそろそろ換毛期だから、そのくらいでちょうどいいのよ』
「ウッソ!ウソッキー!」
『やだなぁ、ほんとよほんと。カガチさんとは違うんだから』
「おっナマエ、言いやがったな?」

カガチさんは、私の頭を両手の拳で挟むと、グリグリと圧をかける。
その様子を見て、カガチさんのパートナーのウソッキーがオロオロしていた。
その周りを、大小様々なポケモンたちが楽しそうに駆け回る。

私と同じくらい……いや、もしかすると、私よりもポケモンの様子を気にかけてくれているかもしれないカガチさんと一緒に暮らすようになってからは、引き取り手のないタマゴをうちで預かることにしたのだ。
本当は、育て屋のルールとしては、そんなことは規約違反だ。何故ならば、そんなことをしていたらきりがないし、不公平が出るかもしれないからだ。

だけど私は、見て見ぬふりを決め込むことはもうやめた。
限界まで偽善を貫いて、少しでも多くの命をあのすり鉢から掬い上げて、この手で撫でて抱きしめてあげるんだ。

『カガチさん』
「何だ?」
『気づかせてくれて、ありがとう』

嘘つきなあなたが、本当は誰よりも優しいということを、私はちゃんと知っている。

あなたの前で、泣いたのは二度

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