■ トリトと遭難

最近の私は、顔馴染みであり想い人であるトリト先生のいる研究所に、毎日のように足を運んでいた。

『今度うちの育て屋で預かる子が、どうも気難しい性格らしくて……どうすれば打ち解けられるのかなって、今から悩んでて』
「それならちょうどいい方法がありますよ!そのポケモンの育った土地のことを、よく知ってあげるんです」

私が俯きがちに相談した内容に、トリト先生はガッツポーズを作らんばかりの勢いで席から立ち上がった。
トリト先生はいつもこうで、人と話す時は少し距離を置いているのにも関わらず、ポケモンの話題となると自然と弁に熱がこもってしまう性格なのだ。
私はそんなトリト先生を愛らしく思う反面、……少しだけポケモンたちに嫉妬してもいた。

『でも、その子の育った土地を知るって言っても、山の中ですよ?』
「ちょうど今週、フィールドワークの予定が入っているんです。よ、よかったら、ご一緒に、どうですか……?」

山の中のフィールドワーク。デートのお誘いと言っていいのかどうかは判然としなかったが、少し頬を染めて俯きがちに尋ねてくるトリト先生を見ると、私はもう頷く他なかった。

それが、数日前のことである。

『と、トリト先生……本当にこっちで合っているのでしょうか?』
「先程までの道のりからすると、合っているはずなのですが……」

自信なさげに肩を落とすトリト先生。私は、不安げにあたりを見渡すことしかできない。
日はもうじき、暮れようとしていた。足元すら見えづらく、木の根がぼこぼこと進路を阻む。

二人は、端的に言うと、遭難していた。

光り物が好きなヤミカラスに、私が持っていたコンパスを奪われてしまい、どうしようもなくなった二人は、こうして手探りで歩いているのであった。

「あ、川があります……!これで、水資源には困らなさそうですね!」

トリト先生は「近くが崖になっていて危ないので、ナマエさんはここで待っていてください」と言い残すと、空になった水筒を持ってひょいひょいと山道を歩いていった。その身のこなしは、一日中歩き詰めだった疲れを知らないかのように軽い。
度重なるフィールドワークによる慣れがあるのだろう、普段の猫背の痩身からは予想もつかないくらいに、彼は山道の歩き方を熟知していた。そして、頼もしい先導役を買って出てくれていたのだ。

それに比べて、私は。

私の心に、ふつふつと罪悪感が湧き上がる。

私があの時、ヤミカラスに襲われてもコンパスを手放さないでいれば。そもそも、私がフィールドワークについていきたいだなんてわがままを言わなければ。

ぐるぐると考え出した思考は止まらずに、視界までもを蝕んでいく。

ずるり、と嫌な感触が足裏に伝わって、次の瞬間、私は転倒していた。

『……ッ!!』

背中を強打した私は、声も出せずにその場で蹲って呻く。
水を汲みに行ったトリト先生の背中は、呼び止めるにはあまりにも遠い。
転んだ衝撃で岩場の下に落としてしまったスケッチブックのことを思いながら、私の意識は少しずつ薄れていった。

■■■

『ん……』
「よかった、気がつきましたか……!」

焦ったような声が、やけに顔の近くで聞こえる。霞む視界を無理矢理にこじ開けると、私はトリト先生におんぶされていた。
いつのまにか、トリト先生の小脇には、ボロボロになった私のスケッチブックも抱えられている。

「ラッキーに応急処置は頼んだのですが、どうやら足首を挫いてしまっているようで……帰ったら、ちゃんとお医者さまに診てもらいましょう。側についていてあげられなくて、本当にすみません……」

真剣なトリト先生の横顔が近い。足首の熱を持った痛みも忘れるほどに、私は恥ずかしさでいっぱいになった。

『あ、歩けます、私自分で歩けますから……っ』
「あっ、ちょっ、じっとしててください……!危ないですから!」

抜け出そうともがけばもがくほど、トリト先生が私の体を支える腕には力がこもる。どこにこんな力があったんだろうとは少し思うけれど、男性的な一面を見て、私は余計に顔が熱くなる。

トリト先生の背中に密着する私の胸。
お願いだから、どうか、この心音が聞こえませんように。

「ほら、ここですよ」
『ここ……?』

そこにあるのは、洞窟のように少しだけ窪んだ、岩の壁だった。ここなら確かに、雨風をしのぐことができそうだ。

「夜中に無理に下山しようとすると危ないですから。足を滑らせたり、崖に気づかずに進んでしまったりしてしまう」

真剣な表情のトリト先生を見て、私は背中を冷や汗が伝うのを感じる。私は一体、無事にこの山を下りることができるのだろうか。
そんな私の不安を汲み取ったのか否か、トリト先生は表情を一変させて、ふんわりと優しく笑う。

「大丈夫ですよ。何があっても、ナマエさんは元の場所へ送り届けますから」

普段はおどおどして頼りなさそうに見えるトリト先生が、今は何故だか輝いて見えた。これが吊り橋効果というものなのだろうか。また、心拍数が、上がる。

『あの、でも、ここ……』

私はふと疑問に思ったことを口に出してみる。

『一人分くらいしか、寝る場所がないのでは……?』

それを聞いたトリト先生は一瞬顔を赤くして、その後パタパタと顔の前で手を振った。

「ぼ、僕は入り口で見張り番をしていますから!だから、心配しなくて大丈夫ですよ。……じょ、女性の寝所に、入り込んだりなんかしませんから」

目をきょろきょろさせながら、後半は小声になっていくトリト先生を見て、ああやっと普段のトリト先生が戻ってきた、と私は何故か安堵を覚えた。
それと同時に、耐えがたい眠気に襲われる。

『でも、そんな、悪い、です……』

ふかふかの葉っぱを敷き詰めてあつらえてあったベッドに横たえられる。私はその安心感から、眠気に抗えなくなって、だんだんと瞼が降りてくる。

『先生……私、先生のお役に……』

トリト先生が、微かに微笑んだ気がした。

そこで、私の意識は途切れた。

■■■

「ナマエさん、ナマエさん、起きてください!」
『うぅ……?』

薄っすらと目を開けると、真っ先に飛び込んできたのは、見たこともないくらいのトリト先生の満面の笑み。そして、その後ろには、筆舌に尽くしがたい程のグラデーションを魅せる朝焼け。
きらきらとした朝の日差しに照らされた先生の髪は、薄くきらめいて透き通り、この世のものとは思えないほどに美しかった。

「……ナマエさん?あの、その、朝焼けは、お嫌いでしたか?」

少し心配そうな顔でこちらを伺うトリト先生を見ると、思わず私は吹き出してしまった。

『いいえ、とても綺麗で、……声すら出せなかったんです』

一歩踏み出して、私はトリト先生の隣に並ぶ。

見下ろすと、眼下には見慣れた街が広がっていた。暗くて分からなかっただけで、思いの外、こんなにも近くにあったのか。

『あのっ……ナマエさんさえよければ、また、フィールドワークにお誘いしてもいいですか……?』

トリト先生の控えめな質問に、私は大きく頷く。

思いの外、近くにあるものなのだ。恋の種も、こんな風に。

安心したように口元を緩めるトリト先生と、ようやく自分の気持ちを自覚してしまった私の間を、朝の爽やかな風が、吹き抜けていった。

君がくれた恋の初風

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