■ トリトと看病

『ごほっ、こほん』

ポケモン以外は私しかいない一人暮らしの家に、咳の音が響き渡る。

さっき、重たい体を引きずるようにして、ポケモンたちにフードを与えた。スポーツドリンクを水で薄めたものも枕元に置いてあるし、万一の時のために洗面器も用意してある。
一人暮らしの侘しさにため息をつきながら、熱のこもる体を嫌々ながらに掛け布団の中に沈める。

『いち、にい、……あれ?』

部屋の中にいる手持ち……私を心配そうにする子、自由気ままに振る舞う子、きずぐすりをなんとかして使おうとしている子、それぞれを数えていくと、ふと数が足りないことに気がついた。
ポケモンだ。私が一番信頼を置いていると言っても過言ではないポケモンが、いつのまにか部屋から姿を消していた。

『ああもう、何だってこんな時に……?』

手持ちポケモンの中でも、あの子は空気の読めるしっかり者なのだ。こんなタイミングで、迷子になるはずがない。まさか、誘拐……という言葉が喉まで出かかって、慌てて私は立ち上がった。

刹那、立ちくらみが私を襲う。

『うあ……っ』

ふらりと傾ぐ体の先には布団も何もなく、硬く冷たいフローリング。目眩のせいで受け身も取れないであろう事実に、私はぎゅっと目を瞑った。

しかし、いつまで経っても、覚悟していた痛みは訪れない。

体が、ひんやりとした何かに包まれる感触がする。鼻をつく何かの薬品の匂い。
私は、恐る恐る目を開ける。

「だ、大丈夫ですか、ナマエさん……?」

緑髪にモノクルをかけて、くたくたの白衣に身を包んだ男性が、私を抱きとめて心配そうに顔を覗き込んでいた。彼は最近親しくなったパビリオンの研究員、トリト先生だ。
その横には、私の部屋の合鍵を咥えたポケモンの姿もあった。

『と、トリト先生……?どうして、ここに』
「えっと、飛び込んできたポケモンから、事情を聞いたんですよ。ナマエさんが一人暮らしだったことを思い出したら、もう、いてもたってもいられなくなって……」

迷惑でしたか、と小声で呟くトリト先生に、私はぶんぶんと首を横に振る。その衝撃でふらついた私は、またトリト先生に支えてもらう羽目になるのだが。

「ま、まだ寝ていた方がいい、ですよ……」

トリト先生はそう言うと、壊れ物を扱うように優しく丁寧に私を寝かせ、掛け布団を被らせる。

ポケモンが私の側に寄り添うように、そっと体を寄せて、私の手を握った。
この子は私を助けるために、この子なりの最善の判断を下してくれたんだ。そう思うとポケモンのことがより一層愛しくて、私は寝転んだまま手を伸ばしてぎゅっとポケモンを抱きしめた。

「そ、その、僕なんかの料理でよければ……食材は買ってあるのですが、柔らかいものなら食べられそうですか?」

トリト先生はビニール袋を掲げて、私に尋ねた。
玉子とおネギが袋から見えたことを考えると、おそらく玉子粥かスープを作ってくれるつもりだったのだろう。
私はその好意をありがたく受け取ることにして、頷く。
それを見たトリト先生は、一人暮らしのワンルームのキッチンに向かった。
白衣で調理場に立つ姿を見ていると、なんだか異様で、だけど着替える手間も惜しんで私のために飛んできてくれたのだと思うと、なぜだか口元が自然とほころんでいくのを感じた。

「できましたよ、簡単な玉子粥なのですが……あの、苦しかったら、残してもいいですからね」

数分後、トリト先生はほかほかと湯気を立てる小さな土鍋を、私の寝ている場所へ運んできた。ポケモンはそれを見ると、私と土鍋の間を嬉しそうな目線で行ったり来たりする。きっと、ちゃんと食べろ、と言いたいのだろう。

『あ、あの、ありがとうございます……いただきます』

はふはふと湯気を立てながらゆっくりと咀嚼する。空っぽだった胃が、柔らかくあたたかい安心感に満たされていく。
トリト先生とポケモンは、本当に嬉しそうな顔で、そんな私をじっと見つめている。
私は今さらながらに、寝間着のままの自分の状態が恥ずかしくなって、掛け布団を胸元まで引き上げた。

「あっ、す、すみません、寝間着の女性の寝所に入り込んだりして……っ!ぼ、僕、洗い物を済ませたら出ていきますね!」

慌てて空になった土鍋を片付けようとするトリト先生を見て、私は自然と手を伸ばしていた。
白衣の裾に、指がかかる。そのままぎゅっと握ってしまえば、トリト先生は困惑で動きを止めた。

「ナマエさん……?」

『一緒に……一緒に、いてください』

風邪の苦しみと戦いながらも全て一人で片付けた用事は、一人暮らしを初めてわずか数ヶ月の私には、あまりにも重く寂しすぎた。
ポケモンがいなくなってしまった時だって、悪い想像しかできなかった。

私は熱に浮かされて、幻を見ているんじゃないか。
目が覚めたら、また一人ぼっちなんじゃないか。

そう考え始めると止まらなくて、ぽろり、と堪えきれなかった涙が頬を伝い落ちる。

「……ナマエさん」

ポケモンが、手を伸ばしてそっと涙を拭ってくれる。
トリト先生は、土鍋を一旦床に置くと、私に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
透き通る青い目と、視線がかち合う。その表情は生徒を叱る先生のように厳しくて、捨てられた子犬のように寂しくもあった。

「ナマエさん、これ全部、一人で用意したんですか」
『……はい』

トリト先生は、空になったポケモンフード入れや水筒、洗面器を見て、小さく嘆息した。

「つらかったのに、よく頑張りましたね。でも、もっと僕たちを頼ってもいいんですよ」

これは同僚からの受け売りなんですけどね、と言ってはにかんだトリト先生は、ポケモンをひと撫ですると、ポケモンも血相を変えて飛び込んでくるほどにナマエさんのことを心配していましたから、と笑った。

その笑顔に安心感が胸に溢れ出した私は、涙腺が決壊するようにぽろぽろと泣き出してしまう。

愛するポケモンとトリト先生は、私を寝かせると、掛け布団の上から優しくとんとん、とあやすようにたたく。

トリト先生が、私の額に手を乗せる。
冷たかった。だけど、心の温かさは、伝わってきた。
ポケモンも、真似をするようにして、私の額をぺちぺちとたたく。

「よく、頑張りましたね。ちゃんと、……ずっと、一緒にいますから」

これが、発熱が見せた幻なら、ずっとずっと風邪を引いていたっていい。

そんな馬鹿なことを考えてしまうほどに、トリト先生の声は優しくて、ポケモンの手はあたたかくて。

私は、いつのまにか、まどろみの底へと落ちていった。

咳をしても、二人

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