今夜も夢と踊る
 

書類の束を抱えてろうそくの明かりに包まれた廊下を歩く。昼間は賑やかな廊下もこの時間になると自分の足音しか聞こえず、歩き慣れた廊下が別の知らない場所のように思えてくる。そんな馬鹿な考えを振り払うように書類を持ち直して、真っ直ぐに廊下を進んだ。
少しすると、明かりの漏れる扉が見えてくる。その前で立ち止まり部屋の主の名前を呼ぶが、返事はおろか人の気配も感じられない。抱えていた書類を足元に置いて部屋の中に足を進めると、案の定部屋の中には誰もおらず、机の上には手つかずの真っ白な書類が散らかっていた。
溜息を吐き、ふと顔を上げると窓から月明かりが差し込んでいた。今日は満月だったのか。


「やっぱりここでしたか、シン」
「なんだジャーファルか。いや、あまりにも綺麗な満月だったものでついな」

大きな満月が微笑む静かな夜、シンは必ず仕事を抜け出して外に出る。昔からそうだった。月が好きなのか、月を口実にただサボりたいだけなのかは分からないが、私に見つかるといつも「満月に誘われたんだ、俺に罪はない」と言って笑った。
市街地を一望できる小高い丘。足元に咲く小さな花とシンの長髪が夜風に撫でられさらさらと揺れる様がとても美しく夢のようだったから、説教の言葉を忘れてしまった。仕方なくシンの隣に腰を下ろすと、シンが肩に手を回してくる。どうせ誰も見ていないだろうし、何より悪い気がしないから放っておく。
このように肩を組んだり、キスをしたり、体を重ねたりと、やることはやっているのだが、私とシンは恋人ではない。私はシンに恋愛感情を抱いていて、シンも私に甘い言葉を囁くが、その言葉が本当なのかはどうも信じがたいからあまり本気にしないようにしている。早く結婚でもしてくれたら私もこの気持ちを忘れることが出来るのに。

「シンはまだ結婚する気はないのですか?」
「またその話か…。今はジャーファルが一番好きだからな、他の女性には興味ないなぁ」

何度聞いても返ってくる言葉は同じ。本心を問い詰めても、きっと上手くはぐらかされてしまうのだ。

「じゃあ私と結婚してくださいよ
「いやぁそれは…困ったなぁ…」

ほうら、想像通り。どのような言葉が返ってくるかは分かってたし、覚悟もしてたし、この会話ももう何度も繰り返しているから大丈夫。傷ついてなんかいない。

「やっぱり。別にいいですよ、あなたと結婚だなんて考えた事もありません」
「ハハ…。お前こそ、そろそろ所帯を持ったらどうだ?」
「シンがいるのに?」
「俺じゃお前を幸せに出来ない」

言い切られた。私を愛しているという設定を貫きたいなら、「俺がお前を幸せにしてやる」くらい言ったらどうだろう。本当に分からない人だ。本当に、シンは酷い人だ。

「シンを好きな間は妻を貰う気なんてありません。だいいち、仕事が忙しくてそれどころではないですし」
「そうか。なんだか悪いな」
「そう思うのなら仕事をしてください」

今の謝罪の言葉は仕事が忙しい事に対してか、それとも私がシンを好きだという事に対してか、返事を返した後に考える。どちらにしろ私を悩ませる問題には変わりないのだが、後者なら私にだって反省しなければいけない所がある。この関係が始まる切っ掛けだった夜だ。過去に戻ることが出来るなら、私は間違いなくあの時の自分に冷静になれと冷水を浴びせてやるだろう。それでこの関係が変わるのかは分からないが。
夜空を見上げる、愚かな私を満月が笑っているような気がした。私も自分で自分を哀れに思う。報われないと、幸せになれないと分かりきっているのになぜこんなにも頭の中がシンで一杯になるのだろう。心のなかで月に問いかけても案の定答えは返ってこないが、シンからは頭が痛くなるくらい聞き飽きた言葉が聞こえてきた。だからそれにまた頭が痛くなるくらい言い飽きた言葉を返すのだ。

「結婚する事は出来ないが、お前を愛してるのは本当だぞ」
「私だって同じです、シンを愛しています」

意図せずも二人の間に漂う甘いムード。あぁ、キスをされるのだろう。もうこんな関係うんざりだと何度も思っているのに口から出るのは甘い声ばかり。
シンの言葉には人を虜にする魔法が宿っているようで、沢山の人がシンに恋心を抱いている。私もその内の一人だが、他の人よりも少しだけシンに近い特別な場所にいるのが、やっぱりどうしても嬉しいのである。これ以上の関係にはなれないと知っているから、いらぬ事を言ってこの関係が壊れるのが怖いのだ。私は臆病で愚かで醜い自分がどうしようもなく可愛いのだろう。

ゆっくり押し倒されて、シンの奥に輝きを増した満月が見える。満月は人を狂わせるという話をよく耳にするがそれは本当なのだろうか。だったらもういっそのこと、この愛に狂ってしまいたい。シンの甘い言葉だけを信じて生きていけたらどんなに楽だろう。夜空に向かって伸ばした手は当然月に届かず空を掴むが、その手をシンが握ってくれたからもう何もかもどうでもよくなってしまった。熱のこもった声でシンの名前を呼び醜く狂っていく私を、大きな月が静かに笑っていた。


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タイトルは過呼吸



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